Vol.20 新潮社「新潮文庫」

 より多くの人に読書の楽しみを広めるため、買いやすい価格と携帯しやすいサイズを実現した新潮文庫。現在まで続く「文庫」としてはもっとも古く、来年創刊100年を迎えます。その変遷と、今年スタートした新プロジェクトなどについて、文芸コンテンツ部 新潮文庫編集部部長の私市憲敬(きさいちのりたか)さんに聞きました。

強みは、読みやすさ、安さ、既刊本の充実したラインアップ

金森氏 新潮文庫は、大正3(1914)年の創刊だそうですね。当初の歩みについて、聞かせてください。

私市氏 創刊から大正6(1917)年までの第1期(全43冊)は、現在の文庫サイズよりやや小型で、造本は厚表紙に背クロス貼りという豪華版。当時の本の世界からすると廉価ではあるのですが、大量に販売する現代の文庫本のあり方からすると、相反する作りでした。その後、昭和3~5(1928~30)年にかけて第2期19冊、昭和8~19(1933~44)年にかけて第3期495冊を刊行し、敗戦を迎えました。今日まで続く第4期は、昭和22(1947)年7月に刊行が始まりました。戦後第1号の新潮文庫は、川端康成著『雪国』です。

金森氏 第4期に至るまでに造本はよりシンプルになり、「多くの人に読んでもらうため、できる限り安価に」という方向にシフトしていったのですね。

私市氏 そうです。近代国家になって、人口も増えた。しかも日本は識字率が高い。読書を楽しむ「知的大衆」の出現です。創刊当初の新潮文庫の大きな特徴の一つが、抄訳でなく全訳で、トルストイやシェークスピアなどの海外の古典名作を提供した点です。限られた知識層から大衆に「知」を開く。そのために、コストダウンに努め、今のような形に進化していったのだと思います。

金森氏 廉価でありながら、新潮文庫にはしおりとなるひもがついているなど、独自の配慮が感じられます。

私市氏 しおりのひもは、専門用語で「スピン」と呼んでいます。文庫本にスピンをつけているのは、大手出版社では弊社だけ。コストはかかっても、読みやすさのためにずっと続けています。本文紙に赤系の紙を採用しているのも、長時間の読書でも目が疲れないように、という工夫です。

金森氏 その一方で、以前に比べて文字が大きくなっていますよね。文字が大きくなれば、ページ増は避けられないのではないでしょうか。

私市氏 おっしゃる通りです。ただ、「文字を大きくしてほしい」というニーズは確実に増えているので、そのためのページ増はやむを得ないと思っています。

金森氏 多くのニーズに対応することも、「広くあまねく」という新潮文庫の理念の一貫というわけですね。

私市氏 はい。特に、昔の活字版は文字が小さめなので、デジタル化と並行して改版を進め、文字の拡大を図ってきました。

金森氏 本という商品は、プロダクト的なマイナーチェンジは可能ですが、書名やコンテンツをいじることはできません。そのため、競合商品との差別化が非常にしづらいと思うんです。しかも、夏目漱石の『こころ』を始め、同じタイトルの文庫本が複数の出版社から刊行されていますよね。そういう状況の中で、新潮文庫が強みとしていることは。

私市氏 競合の中には、書き下ろしの新刊に力を入れているところもあります。それに対して新潮文庫の強みは、既刊本のタイトルが充実していることです。川端康成にしても、夏目漱石にしても、安部公房にしても、日本文学の名作は、他社さんより多く手に入るのではないでしょうか。

金森氏 既刊の名作を同じ棚に並べている書店や図書館は多いと思います。ここで一定のボリュームを取れるというのは、確かに大きな強みですね。

私市氏 そうなんです。既刊本が少しずつでもコンスタントに売れており、1タイトルの売り上げナンバーワンを他社に譲ることはあっても、全タイトルの合算売り上げにおいてはおそらくトップのシェアを獲得しています。

金森氏 なるほど。

私市氏 古典や近代文学ばかりでなく、村上春樹さん、宮部みゆきさんなど、今の時代にもっとも注目されている作家さんの作品の多さも新潮文庫の大きな強みです。

金森氏 充実したコンテンツによって、一時的なシェアではなく、長く安定したシェアを獲得しているのですね。

若い読者層を取り込む、毎夏恒例の「新潮文庫の100冊」フェア

金森氏

金森氏 トップシェアを維持するためには、新潮文庫のファンや、「指名買い」を促す戦略も重要だと思います。何か取り組んでいることはありますか。

私市氏 特に重視しているのが、若い読者へのアピールです。できれば小学校高学年くらいから新潮文庫に親しんでもらいたいと考えています。その目的で展開しているのが、毎夏恒例の「新潮文庫の100冊」フェアです。

金森氏 夏の文庫フェアは競合各社も力を入れていますが、最初に始めたのは御社だそうですね。

私市氏 はい。1976年に始めました。きっかけは、大手競合の文庫参入でした。新刊を重視する大手競合の戦略に対抗するために、既刊の魅力を若年層に向けて大々的にコミュニケーションするようになったのです。

金森氏 名作コーナーの棚を占めていることに安住せず、違う棚に進出して新しい読者との接点を模索し始めたと。

私市氏 そうです。夏休みはたっぷり読書の時間がとれますし、宿題として読書感想文を子どもたちに書かせる学校も多い。

金森氏 早いうちから文学に触れてもらい、生涯顧客になってもらう戦略ですね。ちなみに100冊はどうやって選んでいるのですか。

私市氏 前年の売れ行きを細かく分析して、中高生にマッチしなかった本を大人向けのフェアに振り替えたり、若い人にぜひ読んでほしいと編集部・営業部が考えて入れている古典もあります。若い人に人気の作家の新刊も、随時入れています。今年でいえば、伊坂幸太郎さん、有川浩さん、小野不由美さんといった方々の作品です。

金森氏 夏以外にもさまざまなフェアを実施していますよね。

私市氏 夏のフェアだけではありません。年末年始のフェアは、毎年80冊程度を展開していますし、時代小説フェア、ミステリー&サスペンスフェア、ノンフィクションフェア、恋愛小説フェアなど、ほぼ毎月、なんらかのフェアを開催しています。今年は、大変な読書家として知られる、ピースの又吉直樹さんのお薦めの本を紹介する「ピース又吉がむさぼり読む新潮文庫20冊」というフェアも行いました。少しでも多く、本に触れる機会を作れれば、と思っています。

私市氏、金森氏

私市氏、金森氏

「Yonda?」キャンペーンに代わり、「ワタシの一行」プロジェクトがスタート

金森氏 夏のフェアの話に戻りますが、主な購買層は。

私市氏 中高生が中心で、想定ターゲットと合致しています。

金森氏 夏の文庫キャンペーンは、競合各社も実施しています。そうした中で、「新潮文庫の100冊」フェアは、インパクトのあるコミュニケーションを通して独自色を出してきた印象があります。例えば、糸井重里さんがコピーを担当した広告キャンペーンなど、大きな話題となりました。「想像力と数百円」「インテリげんちゃんの、夏やすみ。」といったコピーは今も記憶に残っています。また、パンダのキャラクター「Yonda?」も長い期間キャンペーンの顔として人気を集めました。キャラクターグッズなども好評だったそうですね。

私市氏 はい。特に女性ファンが多かったようです。

2013年7月1日付 朝刊 2013年7月1日付 朝刊

金森氏 その人気キャラクターが今年“引退”となり、新たなキャンペーン「ワタシの一行」がスタートしました。

私市氏 ビートたけしさん、松井秀喜さん、林真理子さんら108人の方々から愛読書と心に残る一行を寄せてもらい、その理由とともに文庫の帯やウェブサイトで紹介しています。一般読者がフェイスブックから「ワタシの一行&コメント」をウェブ投稿できるサイトも作りました。この「ワタシの一行」は、夏のキャンペーンにとどまらず、通年で継続していくプロジェクトです。本の新しい楽しみ方を提案する読書運動と言った方がいいかもしれません。

金森氏 なるほど。それにしても、「一行」という訴求の仕方は、とてもうまいですね。読んでみたくなりますし、流し読みできないなと思います。

私市氏 いかに「読んでみたい」と思っていただくか。少し前から、売り手発のメッセージは、いくら真実を語っても、「どうせ宣伝だろう」と、振り向いてもらえなくなっていると感じていました。著名人の方々や書店員さんから推薦文をいただくなど、試行錯誤は重ねているのですが…。
「ワタシの一行」の「一行」は、すべて、作家さんが力を振り絞った渾身(こんしん)の一行です。本の魅力を伝えるうえで、これほど力強いものはない。また、選ばれた一行には、選んだ人の個性や人生観が表れます。こうしたことを通して、読書の面白さを伝えていけたらと考えています。

読者とともに読書の楽しみを見つけ、共有する

私市氏

金森氏 プロジェクトの手ごたえはいかがですか。

私市氏 本と読者、あるいは読者と読者を、かつてなかった形でつなぐことができているのではないかと感じています。私もひとりの読者として、ウェブサイトに投稿していますし、また、他の方々の「一行&コメント」を読むのがとても楽しみなんです。皆さんの「一行」に対する思いの深さや表現力には本当に驚かされます。「読書離れ」など、どこの国の話かという感じです。プロジェクトそのものへの反響も大きく、「以前から『ワタシの一行』と同じような課題を出していました」という、学校の先生からのメッセージも寄せられています。そうした反響もうれしく受け止めています。

金森氏 次世代の本好きを発掘し、読者の裾野を広げるプロジェクトになりそうですね。今後の課題があるとしたら、どういうことでしょう。

私市氏 「ワタシの一行」をウェブサイトに投稿できることや、寄せられた投稿の中から編集部が「ワタシの一行賞」を選ぶ「ワタシの一行アワード」などについて、まだ周知が足りないと思っています。また、もっと気軽に投稿できる仕組み作りも必要だと考えています。投稿が蓄積されるほど、このサイトの面白みは増しますから、地道に取り組んでいきたいです。

金森氏 マーケティングの第一人者であるフィリップ・コトラーは、作ったモノを売り込むだけのマーケティングを「1.0」、市場が求めるモノを作り、顧客と1対1の関係を築くマーケティングを「2.0」、顧客と一緒にモノを作り、顧客同士をつなげるマーケティングを「3.0」と区分し、これからの時代は「3.0」の考え方が重要だと説いています。お話をうかがってきて、「3.0」の仕組みが今年できたのだなと感じました。「ワタシの一行」という新しい切り口の読書感想文が、他の誰かを刺激し、本を読む動機づけとなっていく。読者と共に創る「共創」のマーケティングに乗り出した印象があります。

私市氏 おっしゃる通りだと思います。新潮文庫は、来年で創刊100年を迎えます。様々な企画などもからめながら、プロジェクトをさらに推進していきたいと思います。

金森氏 今後の展開を楽しみにしています。

私市憲敬

新潮社 文芸コンテンツ部 新潮文庫編集部部長

1988年入社。新潮文庫・「新潮」編集部・出版企画部・出版部などを経て現職。

インタビューを終えて

 フィリップ・コトラーの「マーケティング3.0」では、マーケティングの目的を以下のように説明している。
 「製品を販売すること」が1.0、「消費者を満足させ、つなぎ留めること」が2.0、「世界をよりよい場所にすること」が3.0であると。
 新潮文庫はまさにそのマーケティングの目的どおりの歩みをしてきたといえるだろう。戦後からの第4期に「より廉価に」として、より多くの人に製品としての文庫本を販売し、さらに、しおりのひもや文字サイズの拡大など読みやすさを追求した製品改善とラインアップの充実などで読者を満足させつなぎ留めてシェア№1を揺るぎないものにした。しかし、昨今では消費者の活字離れが進んでいる。そこで、「ワタシの一行」プロジェクトで読書のもたらす人生の豊かさを、読者一人ひとりの声を取り上げ広めようとしているのだ。作家と編集者、出版社という本の作り手と、それに応える読者が一緒になって新たな書籍の「価値」を紡ぎ出しているのである。(金森努氏)


金森 努氏

金森 努(かなもり・つとむ)

有限会社金森マーケティング事務所取締役社長 東洋大学経営法学科卒。大手コールセンターに入社。本当の「顧客の生の声」に触れ、マーケティング・コミュニケーションの世界に魅了されてこの道20年。コンサルティング事務所、電通ワンダーマンを経て、2005年独立起業。青山学院大学経済学部非常勤講師(ベンチャー・マーケティング論)、グロービス経営大学院客員准教授(マーケティング・経営戦略)、日本消費者行動研究学会学術会員
金森氏ブログ「 Kanamori Marketing Office

HISTORY

1914年

「新潮文庫」 創刊時の「新潮文庫」

新潮文庫創刊。
現在の文庫サイズよりやや小型で、造本も厚表紙に背クロス貼りという豪華版。
新潮文庫第一期43冊を刊行した(~17年)。


1928年

「新潮文庫」 第二期のシリーズ

新潮文庫第二期19冊を刊行(~30年)。


1933年

「新潮文庫」 第三期のシリーズ

新潮文庫第三期495冊を刊行(~44年)。


1947年

「新潮文庫」 『雪国』(川端康成著)

新潮文庫第四期刊行開始。第一号として『雪国』(川端康成著)を刊行。


1966年

新字・新仮名のみで学校教育を受けた世代が読者層に参入してきたため、数年をかけて改版に取り組む。新字・新仮名を採用し、送り仮名を統一。難解な文字にはルビを振った。


1967年

従来のグラシン紙の装丁から、4色刷りのカバーに変更する作業を開始。
各社も追随し、書店で文庫本が平台に並べられるようになる。


1972年

1972年7月7日付 朝刊 1972年7月7日付 朝刊

新潮文庫愛読者サービスとして「新潮文庫ベスト100クイズ」を実施。


1973年

新潮社創立80周年を記念して、特別クロス製の表紙を付けた文庫本150冊を1セットとし、専用の書架を添えて各地の高校の図書館に寄贈する活動を始める(~79年)。
寄贈した学校は5,679校に達した。


1976年

1976年7月14日付 朝刊 1976年7月14日付 朝刊

「新潮文庫の100冊」フェア開始。


1978年

「新潮文庫の100冊」で著名人をイメージキャラクターに採用し、広告宣伝活動を展開。


1980年

新潮文庫の活字が大きくなる。従来の8ポイントから8.5ポイントに。


1984年

1985年7月12日付 朝刊 1985年7月12日付 朝刊
1984年7月14日付 朝刊 1984年7月14日付 朝刊

新潮文庫の広告宣伝を糸井重里氏がプロデュース(~96年)。


1997年

「新潮文庫」 Yonda?

新潮文庫の広告宣伝のキャラクターに「Yonda?」が登場。


2013年

2013年7月1日付 朝刊 2013年7月1日付 朝刊

「ワタシの一行」プロジェクト開始。