東京朝日に「朝日歌壇」が登場したのは1910(明治43)年9月15日、選者は前年に校正係として入社したばかりの石川啄木であった。大阪朝日は、それより遅れて1917(大正6)年2月27日の紙面からはじめたが、選者名はない。
啄木を選者に起用したのは、東京朝日の社会部長・渋川玄耳であった。啄木が主筆・池辺三山の印象を「大いなる彼の身体を憎しと思うその前にゆきて物を言う時」と詠んだのを渋川が見て思わず笑い出し、それが認められるきっかけになったとの説がある。いずれにしろ、当時25歳の啄木の才能を見抜いた大胆な起用であった。
俳句欄は明治30年代から登場しているが、それが「朝日俳壇」になったのは、東京朝日が1907(明治40)年4月28日、大阪朝日は1916(大正5)年3月30日夕刊からである。
その後、二つの欄は一流の歌人、俳人を選者としながら消長を重ね、1970(昭和45)年9月14日から、四選者の共選による四本社共通の欄として一本化された。












