「写真術」は、幕末の武士の写真が残っているように開国以前に伝来したが、新聞に写真が登場するのは、朝日新聞をはじめとする各紙が創刊してから十数年がたった、1890年代後半である。
朝日新聞が東京に進出した1888(明治21)年7月15日、福島県の磐梯山(ばんだいさん)が噴火した。この時新聞写真の代わりに、読売新聞では、写真を銅版にして印刷した。この工法は銅版画に樹脂の粉末を融着させて砂目をつくり、その上にクレヨンを使って写真を模写して、腐食させたもので、いわば模写製版だった。朝日はこの時、山本芳翠(ほうすい)の写生を木工木版に彫刻して印刷したが、こちらの方が紙面は格段に鮮明だった。
新聞写真の実用化が手間取ったのは、製版用の網目、スクリーンの開発にあった。朝日が写真銅版を使って印刷したのは、1893(明治26)年6月6日に東京朝日が発行した本紙1ページ大の付録「京城と韓兵」の図だ。
朝日の本紙に報道写真が載ったのは、1904(明治37)年9月30日の東京朝日紙面で、日露戦争の特派員が撮影した「遼陽写真法」だ。この写真は10月には連日のように紙面を飾るが、持参した写真機は三脚なしに写せるコダック社製のハンドカメラで、ロールフィルムを使用した。
しかし、この時期に新聞写真はあまり多用されていなかった。理由は、製版した写真を紙型にとる技術がなかったからで、その壁が破られたのは、1912(明治45)年4月のことだった。以後、東西朝日には、報道写真が多用されるようになり、そのできばえが他紙を圧していく。













