朝日新聞に最初に「連載小説」といえるものが掲載されたのは、創刊早々の1879年(明治12年)2月21日から17回続いた「集散離合連枝の後栄」(しゅうさんりごうれんしのさかえ)である。当時は大小新聞を問わず小説を連載することがはやっていたが、どの新聞もこれを小説と呼ばず、「続物話」(つづきものばなし)とか、「長物語」(ながものがたり)と称して筋書きは実話に基づいたものとの建前をとっていた。新聞は事実を伝え、作り話は掲載しないという考えからであろうか、第1回の冒頭の作者の言葉の中で、「号を累(かさ)ね編を積む長物語も浮草の根無し事にあらずして」と断っている。しかし、内容は大阪船場の紙問屋の3人の遺児がそれぞれ苦労を重ね、集散離合の末、めでたく立ち直って再開する物語で、いかにも芝居がかった創作らしい場面がしばしば出てくる。
この「連枝の後栄」の世間からの評判はよく、大阪市内の寄席で講談師が取り上げて読みたてたほどである。また、1881年(明治14年)4月7日から50回にわたり長期連載された「邯鄲回転閨白浪」(かんたんがえしねやのしらなみ)は芝居になった最初の作品で、新聞小説の人気に拍車をかけた。やがて純粋な創作が次々と紙上に発表され、今日の新聞小説の型が作られていった。












