1928(昭和3)年の秋、遠隔地からの写真送稿のために、新聞業界に電送技術が導入された。しかし、初期の電送機は装置の重さが6トン半もあり、移動性に乏しいうえに、逓信(ていしん)省から認可された特別な通信回線以外は使えず、全国どこからでも写真を送稿するという新聞業界の念願からはほど遠いものだった。その夢をかなえたのが、ポータブル写真電送機である。
1935(昭和10)年の秋、朝日新聞はポータブル型電送機の試作を、ひそかに日本電気に委託する。そして1年後の1936(昭和11)年9月20日、「ニュース写真の驚異 全国を移動・迅速に電送 携帯用写真電送機 苦心研究見事に結実 独占権獲得・けふ開始」という社告が、東京朝日に掲載された。社告によると、この新鋭機は、トランク型の送信機・増幅器からなり、総重量は50キログラムあまり。手軽に車に積み込むことができ、どんな山間地であろうと電話線のあるところからなら自在に写真を電送できた。さらに、1年間はその製作権を朝日新聞社が独占し、他社は指をくわえて見守るしかない、というものだった。
ポータブル電送の第1号は社告翌日の9月21日の紙面に登場する。内容は、北海道で行われる特別大演習のため北上中の参謀総長・閑院宮(かんいんのみや)が、途中仙台に立ち寄った際のスナップである。20日午後4時34分仙台駅に降り立った閑院宮を撮影した3枚の写真は、すぐに本社仙台通信局に送られ、前夜から待機していたポータブル電送機へと運ばれた。
当時の社報によると、21日の紙面は、他紙が上野発車の際の写真を掲載するなか、朝日新聞は仙台到着の写真を掲げており、従来の常識とはかけ離れたものだったという。ちなみに、当時、東北線を使った場合の所要時間は、仙台~上野間で9時間33分、駅から本社までの輸送時間などを加えると、10時間を超す。この電送機は、閑院宮の撮影から2カ月後の1936(昭和11)年11月には、長崎・広島からの写真電送の道を開き、以後改良を重ねて日本の新聞写真報道の支柱となった。この年は、朝日新聞が九州・名古屋でも印刷を開始した翌年にあたり、ポータブル写真電送機が朝日新聞の「全国化」を支えた陰の力でもあった。













