クリエーターインタビュー

挫折を味わった分だけ視野が広がり、表現も豊かに

アサツー ディ・ケイ コピーライター/クリエイティブディレクター 三井明子氏

 中学校の美術教師として働いた後、コピーライターに転身。何度も転職を繰り返しながら、現在にたどり着いたという、アサツー ディ・ケイ(以下、ADK)の三井明子氏。アパレルブランド「23区」の広告をはじめ、タレントのベッキーさんがモデルを務めた2016年の宝島社の新聞広告のクリエーティブディレクターも担当するなど、注目を集めている。

体当たりでつかんだコピーライターの仕事

──広告業界を目指したきっかけは。

三井明子氏

 身内に広告会社で働くアートディレクターがいて、子どもの頃から広告を作る仕事があることは、なんとなく知っていました。広告業界を目指そうと思ったのは、武蔵野美術短期大学に通っていた頃です。美術の道に進もうと入学したのですが、自分には絵の才能がないことに気づきました。そのとき、絵を描くよりも文章を書くほうが、実は好きだったことを思い出したんです。ポスターの絵をつくるより、コピーを考えるほうが向いているような気がしました。ちょうどその頃、糸井重里さんが「YOU」というテレビ番組の司会をされていて、コピーライターブームだったことも影響を受けたと思います。ミーハーですね……。それで、愛読していた月刊誌『広告批評』の広告学校に通いはじめました。

──短期大学卒業後、美術教師になりました。

 すぐに広告業界に進まなかったのは、広告学校に通っていたとき、あるコピーライターの方から「いいコピーを書きたかったら、まずは普通の会社員をやった方がいい。その方が、世の中の不条理や人の機微が分かるようになるから。もし、会社員として働いてもコピーライターになりたい気持ちが薄れていなかったら、戻ってくればいい」と言われたからでした。今思えば、「弟子入りはお断りだよ」という意味だったのかもしれませんが……。

 短期大学で美術の教員免許を取得したので、卒業後は美術教師として働き始めましたが、わずか1年で退職しました。理由は、成績をつけるのがあまりにも苦痛だったから。美術は他の科目のように、明確な答えがありません。つまり、点数をつけるときの基準は私となります……。そもそも、コピーライターを目指そうと思ったのは、絵の才能がないと自覚したことがきっかけです。そんな私が、人生を左右する可能性もある成績をつけていいものか、眠れない日が続くほど悩んでしまいました。

 美術教師を辞めたとき「コピーライターになりたい」という気持ちが薄れていないことに気づき、再びコピーライターを目指すことにしました。2年ほど就職活動をしながら電通の派遣社員として働き、24歳でようやくコピーライターとして就職することができました。

──その後、化粧品会社の宣伝部とマッキャンエリクソンを経て、ADKに就職します。

宝島社「あたらしい服を、さがそう。」

 最初に就職した制作会社は2年ほど働きました。そのとき担当した中に化粧品メーカーの雑誌広告のキャッチコピーやボディーコピーの仕事がありました。その経験を基に、化粧品会社の宣伝部に転職することができたんです。

 転職した化粧品会社では、テレビCMや駅貼りポスター、交通広告のほか、社内教育ツールやごくごく小さな販促物など、ありとあらゆるものを制作していました。やりがいは感じていましたが、徐々に化粧品以外の広告も作ってみたくなり、5年勤めた後、広告会社マッキャンエリクソンに転職しました。

 マッキャンエリクソンでは、これまでの経験から化粧品の仕事が多かったので、仕事の幅をもう少し広げたいと感じ始めました。そのとき、広告学校時代の友人が、ADKのコピーライターの募集を教えてくれたのです。それで応募してみたところ、運良く採用してもらうことができました。

 これまで何度も挫折をしてきましたが、広告会社に新卒で入った方たちとは違う視点を持てているのではないかとポジティブに捉えるようにしています。特に化粧品メーカーで働いていた経験は貴重でした。広告主にとって広告がいかに大事か、その思いや状況が分かるので自分のことのように考えることができるのです。そんな風に広告主の思いに共感できるところも、自分の持ち味かもしれないなと思っています。

続けてきたからチャンスをつかめた

──転機となった出来事は。

オンワード「23区」

 味の素「Jino薬用育毛ローション」のラジオCMで、いくつか賞をいただきました。20秒のシリーズです。小学生の頃に面白いと思っていた川崎徹さんのテレビCMのような切れ味のあるCMを目指して作りました。ナンセンスなギャグをいれた面白い広告にずっと憧れていて、いつか作ってみたいと思っていたんです。それを評価していただけたので、達成感も大きかったです。

 それから少しずつ、指名での仕事の依頼がいただけるようになりました。箭内道彦さんとご一緒したオンワード「23区」の仕事は、その一つです。箭内さんは、いわゆる広告づくりとは違う視点でアイデアを投げかけられ、とても刺激的でした。

 たとえば、コンセプトの立て方が違います。最初のキャンペーンは「月9」をコンセプトにして、ドラマ中の名ゼリフをイメージしたコピーで展開しました。しかも、23区にちなんでTVCMも、グラフィックも、ウェブ動画も、全て23本ずつ作り、それぞれコピーを変えました。おそらく3,000本くらいコピーを書いたと思います。他にも23区では、「シアワセのための23のことば」と題して、女性の心得のような広告も制作しました。その広告に目をとめてくださった出版社の方に声をかけていただいて、写真家の平林美紀さんが撮影した羊の写真に言葉を合わせる『マイペースのススメェー』の文を担当しました。とても光栄な機会でした!

 ベッキーさんにご出演いただいた宝島社の新聞広告は、クリエイティブディレクター兼コピーライターとして担当しました。「ファッション雑誌のリーディングカンパニーとしてアパレル業界を応援する広告をつくりたい」というお話からスタートしたものです。服の価値や必然性を伝えるために、宝島社の蓮見社長と打ち合わせを重ねて企画をしていきました。企画が固まったところで、当時休業されていたベッキーさんにご依頼をして、お受けいただくことができました。クライアント、タレントと一緒に作り上げるという、貴重なプロセスで完成した広告です。個人的にとても心に残っています。

──広告づくりで大切にしていることは。

 広告はクライアントのもので、機能することが大切だと考えています。これは、化粧品会社の経験が影響しているかもしれません。最近の若い広告関係者の方々には、そういう意識をきちんと持たれている方が多いので、その影響を受けている部分もあります。今は、広告の予算が潤沢だった頃とは時代が違いますから、クライアントも費用対効果を強く意識されるようになってきていますよね。シェアされるとか話題になるとか、広告を機能させるためにできることを、いつも前向きに真摯(しんし)に考えるようにしています。

──新聞広告に対する意見を聞かせてください。

 子どもの頃から朝日新聞を読んでいます。自分が手がけた広告が新聞に掲載されるのは、やはりうれしい。田舎に住む親もよろこんでくれます(笑)。日本全国の人に見てもらえる、いい意味でかしこまった特別なメディアだと思っています。あれだけの記事を毎日書く人がいて、印刷する人がいて、人の手で配っていることは、改めて考えるとすばらしいことですよね。

──最後に、若手クリエーターに向けてのメッセージをお願いします。

 続けていくことが大事だと思っています。私はこの20年間、転職先が決まらずブランクがあった時期もありました。しかし、続けてきたことで少しずつチャンスをいただくことができました。初めてコピーライターとして就職した会社で化粧品の広告を担当したことがあったから、化粧品会社の宣伝部で働くことができましたし、マッキャンエリクソンでの経験があったから、今のADKに就職することができました。転々としてきましたが、一つも無駄になっていません。そう思うようにしています。今はコピーライターという仕事は、私にとって「与えてもらった役割」ではないかと思っています。肩に力が入っていた時期もありますが、たいていのことはなんとかなるものですし、そんなに最悪なことにはならないものだと思えるようになってきました(笑)。

三井明子(みつい・あきこ)

アサツー ディ・ケイ コピーライター/クリエイティブディレクター

静岡県出身。中学校教員、コーセー宣伝部、マッキャンエリクソンなどを経てアサツー ディ・ケイ。JAAAクリエイターオブザイヤー・メダリスト、TCC賞、ACCゴールド・シルバー、広告電通賞、新聞広告賞、雑誌広告賞、JAA賞、アドフェストグランプリなど受賞。TCC賞、ACC賞、宣伝会議賞、ピンクリボンデザイン大賞などの審査員も務める。東北芸術工科大学 非常勤講師。著書に『マイペースのススメェー』(パイインターナショナル)。

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