「世の中は、わがままな奴がいるから進歩する」が口ぐせだった父・中村 誠

 資生堂宣伝部のフォトグラファーを経て2006年にフリーランスとして独立。現在も同社の広告をはじめ、数々の広告写真を手がける中村成一氏。中村誠氏の長男で、誠氏の晩年の作品に多大な貢献もしている。成一氏にとって、父・誠氏はどのようなクリエーターだったのだろうか。

求めるフォルムのため、写真を大胆にトリミング

──成一さんは、カメラマンとして資生堂で活躍、フリーランスとなった今も数々の資生堂の広告写真を担当されています。

中村成一氏 中村成一氏

 私が写真に興味を持ったそもそものきっかけは映画でした。10代の頃から映画が好きで、ファンだったスタンリー・キューブリックがスチルカメラマン出身であることを知り、高校時代は写真部に入りました。それを聞いた父が「資生堂の写真スタジオをのぞいてみるか」と言ってくれて、高2の夏に初めてプロの現場を見学しました。大学は普通科の四年制に入りましたが、資生堂のスタジオでアシスタントを始めるようになって、ますます写真の世界にのめりこむようになりました。卒業が近づくと上司が引き留めてくださり、そのまま資生堂の仕事を続けることになりました。

 当時の資生堂の広告写真を担当していたのは、横須賀功光さんをはじめ、超一流の方々です。特に美しい女性像の撮影においては未熟な新入社員が太刀打ちできる相手ではなかったので、私はあえて化粧品パッケージなどの「ブツ撮り」の腕を磨くことに励みました。

──同じカメラマンとして、横須賀さんの仕事をどのように見ていましたか。

 私は一度しか横須賀さんの撮影現場を見たことがないので、作品に対する感想しか言えませんが、常に新しい撮影手法に挑戦し、それを独自の表現として定着させる抜群のセンスを持ってもっていたと思います。個人的には、山口小夜子さんのポスターシリーズがとても好きです。ただ、父が横須賀さんの写真を容赦なくトリミングしたことで、大ゲンカになったこともあったそうです。カメラマンからすると父は冷酷なアートディレクターだったと思いますが、ポスターが評価されるたびに互いを認め、次の新しい表現のために協力し合っていました。

──目や唇のクローズアップなど、大胆なトリミングは、化粧品の質感を伝えることに成功しました。

 結果としてそういう評価も加わりましたが、父のトリミングの最大の意図は、顔のパーツを一つのフォルムとして捉え、いかにグラフィカルに、いかにシンボリックに構成するかというところにあったと思います。特に初期の仕事は、その傾向が強かったですね。

中村さんの自宅スタジオ。晩年は誠さんも使った。 中村さんの自宅スタジオ。
晩年は誠さんも使った。

──誠さんから、カメラの仕事に関してアドバイスを受けたことはありましたか。

 父とは一緒に作品制作もしていましたが、自分の創作活動のことで頭が一杯だったのか、助言された記憶はあまりありません(笑)。

──誠さんとの共同作業で印象に残っていることは。誠さんの制作方法を間近でどのように見ていましたか。

 一緒に仕事を始めた頃は、コンピューター画面でグラフィック操作ができる時代になっていたのですが、父は、色や形が簡単に調整できることを面白がって、貪欲(どんよく)にいろんなことを試そうとしました。ただ、20年近く前のコンピューターは、今よりずっと動作速度が遅く、できないこともあるわけです。それでも「ああして、こうして」としつこいので、僕が「わがまま言うなよ」と言うと、決まって「世の中は、わがままな奴がいるから進歩するんだ」と返してきました(笑)。いくつになっても理想のデザインを突き詰めていく集中力は健在でした。

 父は、ゼロから何かを創作するというよりは、葛飾北斎や山口小夜子さんなど、ベースになる素材を見つけ、それを発展させていくトレーニングをひたすら積んでいたように思います。例えば、グラフィックデザイナーの福田繁雄さんと一緒に制作した「モナリザ百微笑」は、印刷所で目にした刷り損じの紙からインスピレーションを得たと聞いています。

「モナリザ百微笑」(1970年)から

モナリザの作品を福田繁雄氏と50点ずつ制作。パリ装飾美術館の他、各国で紹介された。

晩年は自らコンピューターを使ってポスター作り

──誠さんは、資生堂の企業文化をとても愛していたそうですね。

 その思いはとても強かったですね。山名文夫さんのイラストレーションにあこがれて入社し、資生堂の広告の気品や格調を大事に受け継ぎたいと思っていたのではないでしょうか。父が資生堂の文化にぜひとも持ち込みたかったのが写真でした。写真はリアリティーがあって伝わるスピードが速いので、高度成長の時代にうまく合致したんだと思います。

 昔から、資生堂とサントリーと松下電器(現パナソニック)の広告は、企業文化を色濃く反映していることで知られていましたが、父はこんなことも言っていました。「うれしくても悲しくても、広告にできるのは酒だけだ。だからサントリーがうらやましい」。広告の仕事が大好きな父らしい言葉だなと思います。

──親子共作の作品について紹介してください。

 2001年のJAGDAポスター展でグランプリをいただいた作品「JAPAN」は、はからずも合作となった一点です。ビジュアルのベースとなったのは、私が撮影した海の写真です。シリーズ写真にして個展でもやろうかとスタジオで写真を並べていたところに、父が来て、「この写真、ちょっと借りるぞ」と、一枚ひょいと持っていってしまったんです。その翌朝、写真の上に白い絵の具で富士山の頂を描いたものを見せられて「いいのができた。画面の下に『JAPAN』と入れてくれ」と言われて仕上げた作品です。

 ある時、「雨の雰囲気の写真を」と言われて、渡したところ、その写真に木のイラストを描きたいと言うので、コンピューターのペンタブレットで描き方を教えました。後になって、その作品が花巻市の宮沢賢治記念館のポスターとなったことを知りました。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」という言葉からイメージして「雨の雰囲気の写真を」と私に頼んだのでしょう。何のために使うのかという説明は一切しない人でした。いずれにしても、父自らがコンピューターを使って制作した唯一の作品です。

萬鉄五郎記念美術館「中村誠の世界展 POSTERS」イメージポスター(2008年) 萬鉄五郎記念美術館
「中村誠の世界展 POSTERS」
イメージポスター(2008年)

 父との最後の共作は、08年に萬鉄五郎記念美術館で開かれた「中村誠の世界展POSTERS」のイメージポスターです。父が描いたイラストをコンピューターに取り込み、彼の指示のもとイラストの形を引き延ばしたり、艶(つや)を加えたりして仕上げました。

──誠さんの父親像は。

 父は仕事一筋の人だったので、ほとんど家にいませんでした。休日はずっと寝ていて、ナイターが始まる時間に起きて、大好きな阪神タイガースを応援していました(笑)。父と過ごした子供時代の記憶は数えるほどしかありません。
  面と向かって会話をするようになったのは、引退してからです。それも結局は仕事の話でしたから、わが家には中村誠はいても父親はいませんでした。でも、亡くなるまでの約20年は、親子の空白期間を埋める貴重な時間だったと思います。

中村成一(なかむら・せいいち)

フォトグラファー

1960年生まれ。立教大学社会学部卒。資生堂宣伝制作部にアシスタント、契約フォトグラファーを経て入社。広告制作、『花椿』などの仕事に携わり、2006年「中村写真事務所」設立、現在に至る。朝日広告賞、電通賞部門賞、ADC賞、年鑑日本の広告写真優秀賞など受賞。KODAKフォトサロン、ARTBOXギャラリー、FireKingCafe、にて個展開催。APA東京支部部長。武蔵野美術大学非常勤講師。