出版社のいちばんの役割は企画と編集

 「世界的視野に基づく創作・評論活動と文学全集の編集」が評価を受け、2010年度朝日賞を受賞した作家の池澤夏樹氏。最近の編書に、書店・図書館・取次・編集・書き手・読み手などさまざまな立場から本の過去と未来を俯瞰(ふかん)する『本は、これから』がある。池澤氏に電子化の流れに対する見解を聞いた。

出版社のブランド力は、電子化が進んでも失われない

――「電子書籍元年」と言われた昨年から大きな進展はないものの、電子化の流れに対する出版業界の取り組みは進められてきています。業界の動きをどう見ていますか。

池澤夏樹氏 池澤夏樹氏

 確かに大きな進展はなく、iPadが登場した時にもう少し普及するかと思っていましたが、出版社の取り組みが遅れ、コンテンツの充実もなかなか進んでいません。そうした中で村上龍さんが電子書籍の制作・販売会社「G2010」を設立しましたが、電子書籍の普及に寄与する動きだと思います。電子化が進むと紙の本がなくなるのではないかと懸念する声もありますが、比率は変わってもそうはならないでしょうし、読者の選択肢が増えるのですからいいことだと思います。

――電子書籍に親しんでいますか。

 僕自身はわりと早くからコンテンツのデジタル化に関心があり、「9・11テロ」直後からメールマガジンを始めました。イラク戦争が始まると聞いた時は、戦争直前にイラクを旅してまとめた『イラクの小さな橋を渡って』の英・仏・独語版を公式ホームページから無料ダウンロードできるようにし、ダウンロード数は10万に達しました。また先日、「G2010」で『楽しい週末』という自著の電子版を刊行したところです。読者という立場では、アマゾンのキンドルを発売当初に入手し、海外の書籍を気軽に購入して読んでいます。

――これから出版社に求めることとは。

 出版社のいちばんの役割は、企画と編集です。作家自ら企画・編集・発信するセルフパブリッシングという新しいスタイルも生まれていますが、一作ぐらいは当たることがあっても、編集者のサポートなしで何作も質のいい作品を出し続けるというのは、よほどの天才でないと難しいのではないでしょうか。少なくとも僕は、編集者にいろんなことを教えてもらって一人前の作家になりました。最近は若い編集者に教えることも増えてきましたが、ベテラン編集者に新作を見せて助言をあおぐことは今でもあります。信頼できる編集者がいるというのは、作家にとって心強いことです。

――編集者の仕事の質の変化を感じることはありますか。

 編集者の仕事は、書き手との相互作用とともに、読み手との相互作用で成り立っています。最近は、内容が軽い本、読み捨てしやすい本、話題になりやすい本が好まれる傾向があるように思いますが、日本の資本主義が大量消費を求め続けてきたことが、出版界にも影響しているのかもしれません。そうした市場では編集者はむしろ商品設計者として力量が問われる。ただ、軽く読める本は、紙の本より電子書籍のほうが向いている気もしますね。

――河出書房新社刊行の『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』全30巻が今年3月に完結しました。

 『世界文学全集』は、それこそ出版社のノウハウなくしては実現し得ない企画でした。月1回のペースであれだけのボリュームの本を出して、しかもその多くが新訳というのは、並みの出版社では到底できないことです。既に廃れていた企画の再利用ではありますが、昔の体験をうまく生かし、持ち前の実力を発揮しました。そうした「ブランド力」は出版各社が持っているもので、どんなに電子化が進んでも失われることはないでしょう。

教育の一貫として紙の本を奨励することも必要なのでは

――紙の本が持つ魅力とは。

 自分の作品の読まれ方については、紙の本でも電子書籍でも僕はかまわない。どちらでも読者とつながることはできると思っています。しかし、ノスタルジーやフェティッシュとして紙を愛する人たちの気持ちはよくわかりますし、読者として、「紙でなければダメだ」と思う時もあります。実際、書評を書く時は、章の並びを見たり、付箋(ふせん)を貼ったページを前後で比べてみたり、漠然としてとらえた概念をもう一度文脈から浮き彫りにしたりして、いろいろな角度から鳥瞰的(ちょうかんてき)に本を分析する必要があり、それは電子書籍ではどうも不便で、紙の方がずっとやりやすいですね。

――電子化のメリットをどのように感じていますか。デジタル世代と紙の世代では、読書の質や本との向き合い方が違うのでしょうか。人々の読書はどう変わっていくのでしょうか。

 電子書籍の機能として便利だと思うのは、読みながら知らない地名などが出てきた時にすぐに検索できることです。例えば教科書などはマルチ機能があったほうがいいわけで、「タブレット型教科書」の普及は進んでいくでしょう。ただ、僕たちが子ども時代に味わった、紙の世界地図帳を開いて膨大な情報の中から目当ての地名を探すという楽しみ方はできなくなります。そうしたアナログ的な体験をあえて与えてやることも必要なのかなと思います。

 電子化によってコンテンツの売り方も多様化していくと思います。例えば、紙の本なら何本かの短編を集めて短編集にするところを、電子書籍ではバラ売りすることもできる。音楽のアルバムとシングルの違いのようなもので、出先のちょっとした時間に電子端末で短編を読める。端末に防水機能がつけば「お風呂で気軽に読書」したりすることもできます。いつでもどこでも本を手にできる時代となり、軽いし、かさばらないし、人々の読書の機会が増えていくのではないでしょうか。

――読書の魅力とは。

 今、みなが読んでいるインターネットは、情報が常に変化し、動き続け、人々がその変化や動きに対応していくものです。すべてが現在という時間の中にある。一方で、本は常に同じ状態のものがそこにあって、じっくり腰を落ち着けて読むものです。そこは現在とは別の時間に属します。流れていく文字を目で追う時間と、静止した状態の文字を目で追う時間とでは、本質的な違いがあります。動画とスチール画の違い、映画館と美術館の違いに例えたら分かりやすいでしょうか。人は、時には均質な時間の中に身を置いて何かを受け取ったり考えたりすることが大切で、それができるのが読書だと思います。

 電子書籍化は止められない流れで、これからの子どもたちは、デジタル端末で本を読むことに抵抗なく親しんでいくことでしょう。だからこそ、紙の本を読む習慣を人生の早い段階でつけることを、教育の一貫としていくべきかもしれません。そういう意味では「朝の読書運動」はとても有意義な取り組みです。未来への教養として、子どもたちに紙の本を手渡してやるのは大事なことでしょう。

池澤夏樹(いけざわ・なつき)

作家

1945年北海道生まれ。埼玉大学理工学部物理学科中退。ギリシャ詩、現代アメリカ文学を翻訳する一方で、詩集『塩の道』などを発表。88年『スティル・ライフ』で芥川賞、2011年には2010年度朝日賞を受賞。他にも読売文学賞、谷崎賞など数々の受賞歴がある。今年の3月には2007年から取り組んでいた『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』の刊行が完結した。