クリエーティブを核としたコミュニケーションを追求し続ける

 宇宙ステーションでCMを撮影した世界初の「宇宙CM」や、競技場といった公の場でサッカーの試合を放映し、バーチャル観戦できる「パブリック・ビューイング・イン・東京」など、広告業界にととまらず、大きな話題を呼んだコミュニケーションを数多く手掛けるクリエイティブディレクターの高松聡氏。キャリアのスタートは、意外にも大手広告会社の「営業」だった。高松氏に、これまでの道のりを振り返るとともに、仕事をする中で感じた最近のメディア事情などについて語ってもらった。

敏腕営業マンがクリエーターに転身したわけとは?

GROUND 代表/チーフ・クリエイティブディレクター 高松聡氏 高松 聡氏

――電通では入社から15年以上、営業を担当していたとか?

 正直、電通という社名すらよく知らないような学生でしたが(笑)、「若いうちからやりがいのある仕事をさせてくれる会社で働きたい」という視点で入社を決めました。諸先輩方に聞くと「電通の王道は営業だ」と言うので、人事面接では「王道を行きたい」と伝え、そのまま営業に配属されたのです。

 大手広告会社の営業の仕事は、必要な人材をキャスティングし、ゴールを設定してクライアントの目指しているものを伝え、さらに利益が出るようにコスト面もコントロールしながら、すべてが正しい方向に行くように引っ張っていく。いわば、プロデューサー的な役割を担っています。僕は、中ぐらいの規模のクライアントを長いこと担当しました。それがよかったと思っています。クライアントが大きいと担当者が数十人もいて仕事が細分化されるため、専門性は高まるけれど、自分の担当以外の仕事がわからない。逆に小さすぎると、できることの範囲が限られてしまいます。でも、中規模のクライアントだと担当は2~3人なので、新聞広告の場所取りやテレビのスポット取りもすれば、オリンピックやサッカーワールドカップへの協賛の仕事も手がける。あるクライアントがショールームを作るという企画を担当したとき、僕は一時移転先の物件探しや、ショールームに設けたカフェのメニュー作りまでしました。超がつくほどの「何でも屋」でしたね(笑)。おそらく電通という会社が手がけるあらゆる領域の仕事を、営業という部署で経験したと思っています。

――営業時代に手がけた中で印象に残っている仕事は?

 2002年のサッカーワールドカップ日韓大会で、国内限定スポンサーではなく、海外開催でも看板が出るグローバルスポンサーのセールスを、国内で初めて成約しました。巨額なのでクライアントを説得するのも大変でしたし、FIFA側にも様々な妥協をしてもらうなど、筆舌できないほどのハードなネゴを乗り切りましたが、いずれもある種、情熱でやっていた部分もあります。

 情熱を支えているのは、「正しいことをやろう」という思いです。そして、やるんだったら正しいお金の使い方をしようと最善の策を考える。これは現在も僕の根底にあります。

――そこまで熱い思いで活躍されていたのに、その後、クリエーティブの道へ進みました。

 理由は色々ありました。そのひとつは、少し生意気な言い方ですが、営業の部署でやることはあらかたやりつくした感があったから。これ以上のポジションや役職を手に入れたからといって、それまでより大きな仕事ができる、あるいはできなかった仕事ができるようになることはないように思えたんです。むしろ会合とか、接待とかに時間が取られるようになってしまう。僕は営業なのに、クライアントと食事やゴルフに行くといった、いわゆる接待は苦手でした。そんな時間があるなら仕事をしたいし、仕事を評価してもらえれば、また仕事は来ると確信していたからです。営業にそのまま居続けると、自分が何かを企画してそれを実現する、というやりがいを失い、組織を統括する管理職としての役目を果たさなければならなくなる。それはうれしくないなと思ったんです。

 営業ではあらゆる領域の仕事をしてきたとお話しましたが、唯一の「不可侵領域」がクリエーティブでした。実は例外的に多少やってはいたのですが、クライアントは営業の名刺を持っている人間から提案されると「ちゃんと本物のプランナーが考えてよ」と言うし、社内からはクリエーティブ局をないがしろにしたように思われてしまう。でも、色々なコミュニケーションの手段がある中で、やはりクリエーティブは「核心」です。このまま営業にいたら、その核心には携われない。それがクリエーティブに転向しようと考えたもうひとつの理由です。

 クリエーティブ局への登用試験に合格することが異動の手段でしたが、気づけば条件の年次を超えてしまった。もうこれは超法規的な判断を取りつけるしかない。そのためには、よほどの既成事実を作らなければ、と。そして打ち立てたのが、宇宙でCMを作るというプロジェクトでした。これを実現して大きな話題となり、さらに、「パブリック・ビューイング・イン東京」がカンヌ国際広告祭で金賞を取ったことと、TCC新人賞の受賞などが重なり、クリエーティブ局への異動がかなったのです。

 部署と肩書こそ変わりましたが、「コミュニケーション全体を考える」ということについては何一つ変わりませんでしたね。むしろ営業の経験があったからこそ、クライアントの視点に立ちながら、メディアそれぞれの役割や力、さらにはコストまで意識したクリエーティブを考えることができた。今の僕のスタイルがあるのは、営業の経験があったからこそだと思っています。

――その後は、独立しましたね。

 在職中に手がけた「パブリック・ビューイング・イン・東京」は、競技場にあるモニターにサッカーワールドカップの試合を上映し、その観戦チケットを販売、そこから得た収益が電通の利益になる、という企画でした。広告会社というのは、クライアントから手数料をもらって経営を成り立たせるコミッションビジネスですから、そういう意味では、広告会社のビジネスモデルからは逸脱していました。社内においては「投資」という形になり、投資委員会という部署に説明して判断を仰ぎました。今後同じような企画をやろうと思ったとき、その判断を待っていたらすぐにプレゼンできないし、そもそも実現できないかもしれない。そのことに不自由を感じ始めたのです。

 独立後にプロデュースした日清食品の「FREEDOM PROJECT」は、オリジナルアニメを制作し、それをDVD化して販売、そこから収益を得るという企画でした。DVDが売れなければ赤字になるという点で、リスクテーキングな企画でした。大きな組織を離れたからこそできた企画だったと思います。ただ、僕自身の仕事は電通時代よりハードになりました。相変わらずプレゼンのために徹夜もしていますし。出世してゴルフに行ったほうがよかったかなぁ、なんて、最近思わないでもないですけど(笑)。基本的に凝り性で、興味のない分野がないので、そういう自分のキャラクターとサラリーマン人生というのがリンクしなかったんでしょうね。だから、独立して自分のやりたいことにフォーカスできたことは、非常によかったと思います。

トリプルメディアが最大の効果を発揮した「アンドロイドau」キャンペーン

――最近手がけた、印象に残っているお仕事について聞かせてください。

 「アンドロイドau」のキャンペーンは、非常に力を入れたプロジェクトです。昨年の11月にプレゼンをしましたが、当時、スマートフォンブームは起きていながら、iPhoneの一人勝ち状態でした。スマートフォンを使う=iPhoneにする、という風潮が根強く、アンドロイド携帯を選ぶのは、コンピューターに詳しい“ギーク層”と呼ばれる人たちだけで、とりたてて詳しくない普通のユーザーが買うというイメージがなかったんです。また、「ガラケー」と呼ばれる従来の日本スタイルの携帯電話とは操作方法が激変します。そんなに大変な思いまでして機種変更して、定番にならなかったら……という不安感もあるようでした。

 しかし昨年末の時点で、アメリカや韓国といったスマートフォン先進国では、アンドロイド携帯の出荷台数がiPhoneを抜き、逆転していました。アップル以外の世界中のほとんどのメーカーがこれからはアンドロイド携帯を作るわけですから、これはおそらくあと1年ほどで「Mac VSウインドウズ」と同じ構図になるだろう、と。しかし、世の中の人はまだそう思っていない。そこで、今回のキャンペーンでは、まずアンドロイド携帯、特に「アンドロイドau」で何ができるのか、今までの携帯とは何が違うのかを伝えることが大きな目標でした。ともすると商品が難しくなればなるほど、15秒で説明できることなんてほとんどない、と機能訴求は避けてしまいがちですが、あえてできる限りの機能を伝えるという道を選びました。

 もうひとつは、「アンドロイドがスマートフォンの新しいスタンダードらしい」ということをわかってもらい、機種変更をするときにはアンドロイドを選ぼうと思ってもらえるような定番ムードを作り出すことでした。そこで、国民的に人気の高い嵐を起用することに。嵐のメンバーがなんだか楽しそうにアンドロイドauを使っている姿は「私にも使えそう」「流行してるみたい」と感じてもらえるだろう。そして、たくさんの「できること」を説明するために、たくさんのテレビCMを作ることを考えました。当初40本程度を想定したのですが、ギネス記録が59本と知り、じゃあ60本でギネスを狙おう、ということになりました。

 CMは、グーグル音声検索やグーグル翻訳といった「目玉」の機能を分かりやすく説明するといった内容はもちろん、北海道や九州など、地域ごとの内容もあり、そうしたCM全60本はウェブで閲覧できるようにしました。CM放映後2、3日でギネス記録として認定されたことで、高いパブリシティー効果を得られ、それがauのサイトへの誘導につながりました。当初、クライアントは「1千万回の閲覧」を目標にしていて、さすがにそれは厳しいだろうと思っていたのですが、わずか数日で1千万回を達成。すぐに2千万回を超えました。さらに、サイトを訪れた人たちが、膨大な数のクチコミを吐き出してくれたことで、さらに大きなムーブメントになりました。

 2千万人が自ら見に行く。これは、もはやマスメディアと言っていいでしょう。最近「トリプルメディア」と言われますが、ペイドメディアであるCMが、オウンドメディアであるauのホームページで2千万回閲覧され、さらに、アーンドメディアであるソーシャルメディアでアンドロイドauに関して膨大な情報が発信された。トリプルメディアそれぞれにおける話題をマックス化した、という点で、大変な成功を収めたと思います。

ソーシャルメディアを考慮しないコミュニケーションはもはや成立しない時代に

――既存のマスメディアとソーシャルメディアの関係性を今後どうとらえていったらいいと考えますか。

 クライアントによっても、また、広告会社の担当者によっても意識が違うところだとは思いますが、僕個人としては、広告主がソーシャルメディアに対して積極的に仕掛けていくということは、今年以降のコミュニケーションにおいて「必須要素」だと見ています。僕が手がけるプレゼンで、ソーシャルの要素がない提案はもはやありえません。そのくらい、重要になってきていると思っています。

 とはいえ、ソーシャルメディア上の声をコントロールすることは、誰にもできません。しかし、リツイートあるいは「いいね!」とクリックしたくなるような施策は打ち立てられると思うんです。「今の潮流を理解していない」と思われた瞬間に古いブランドになってしまう。新聞やテレビといったマス媒体でブランドイメージを醸成していくことは相変わらず重要ですが、少なくともソーシャルで何が起きているかはウオッチしていかなければ。ブランド評価を上げていくうえで、重要なことだと思います。マスメディアの人たちも、別のプラットホームが力を持ってきていることや、そこで自分たちがどう評価されているか理解を深めなければいけないと思います。

 ソーシャルメディアの世界は参加しないと見えてこない。この現実を、広告主企業、広告会社、メディアの担当者は認識する努力をする必要があると思います。

 今、一般のユーザーのほうが、ソーシャルメディアにおいてはプロになってしまっている。僕ら広告業界に従事する人間がプロじゃない領域が主戦場になっているという危機感を、どれだけ持てるのか。これは革命的に困ったことと言えばそうなのですが、そこを逆手にとってプロになれるのであれば、新たな広告市場は作ることができると確信してもいます。

 ソーシャルメディアがアラブで革命を起こす時代です。かつて「ペンは力」と言われましたが、ペンが記者の手から一般の人々に移り始めている。それが持つ力は、政治だけではなく、ブランド形成や購買行動にも決定的な役割を果たすはずです。マスメディアがどう対峙(たいじ)していくか。それが問われる時代になってきているのだと、僕は考えます。

高松 聡(たかまつ・さとし)

GROUND 代表/チーフ・クリエイティブディレクター

1963年栃木県生まれ。1986年筑波大学基礎工学類を卒業後、電通入社。営業局を経て、クリエーティブ局に転局。2005年にクリエーティブエージェンシー「ground」、宇宙映像制作会社「SPACE FILMS」を設立。主な仕事に、大塚製薬ポカリスエット「宇宙CM」、スカイパーフェクTV!(現スカパー!)、アディダス、NTTレゾナント「goo」、日清カップヌードル「NO BORDER」「FREEDOM」、KDDI「iida calling」「アンドロイドau」キャンペーンなど。2003年「パブリック・ビューイング・イン東京」でカンヌ国際広告祭金賞(メディア部門)、2006年「教えて!goo」で米国クリオ賞グランプリ、アドフェスト グランプリ、NY ADC賞ハイブリッド部門金賞、2009年「iida calling」でカンヌ国際広告祭ブロンズ(サイバー部門)など、受賞多数。従来の枠を超えた企画で国際的にも注目されている。