重要なのは、紙か電子かではなくコンテンツ

 書店、流通、版元、デジタル化の波など、さまざまな角度から出版業界が抱える問題に迫った『だれが「本」を殺すのか』が出版されてすでに9年余り。いよいよ大きな岐路に立たされた「本」の現状をどう見るのか。ノンフィクション作家の佐野眞一氏に聞いた。

今こそ出版人には冷静さが必要

ノンフィクション作家 佐野眞一氏 佐野眞一氏

――今年7月、東京国際ブックフェアで「グーテンベルクの時代は終わったのか」というタイトルで基調講演をされました。

 出版人というのは、一言でいえば“おっちょこちょい”です。iPadやキンドルの攻勢が始まったと聞くと、紙の本はもう終わりだと極端に悲観し、かと思えば新しいビジネスチャンスが生まれるとえらく楽観的なことをいう。僕に言わせればどちらも熱病にかかっているようなもので、もう少し冷静にものを考えてほしいといった話をしました。

 一番大事なのは、本というのは紙であれ電子であれ、(あまり好きな言葉ではありませんが)コンテンツだということです。それは例えば知識であり情報であり、感動です。僕が改めてそう思ったのは、試しにiPadの「青空文庫」(ネット上で著作権切れの文学作品などを公開する電子図書館。iPadでは専用アプリ「i文庫HD」を用いる)に触れた時でした。

 その収録作の中でも目にとまったのが、新美南吉の『おじいさんのランプ』でした。この物語では、ランプを売って生計を立てていた巳之助という男が、街に電気が引かれる話が持ち上がると推進役の区長(文盲の巳之助に文字を教えてくれた恩人)の家に火をつけようとします。巳之助は出がけにマッチが見つからず、火打を持ち出します。ところが火打では火がつかず、彼は「古くせえもなア、いざというとき間にあわねえ」と思わず口にし、そこではたと自分のよこしまな心に気づくわけです。

 この童話にはいくつか教訓があります。一つは時代に取り残されたものには見切りをつけ、変化に対応しろということでしょう。新美はもっと深い教訓も用意しています。巳之助はランプをすべて池のほとりにつるして村から出た後、町に出て本屋になります。つまりこれは、「本」をテーマとした寓話(ぐうわ)なのです。現代の出版人が紙か電子かとあたふたしていれば、それはランプ売りのおじいさん以下の時代認識しかもっていないということでしょう。

――出版界のおかれた状況をどう見ていますか。

 出版業界は年間売り上げがついに2兆円を切る一方で、年間出版点数は9万点近くと数だけは増えています。1点当たりの初版部数が絞られ、書店での滞留時間もさらに短くなりました。それと僕の目から見ると、電子の波が襲うことで、簡単にダイエットする方法とか勉強する方法とか、本の作られ方がイージーになっているという印象があります。松岡正剛氏の「松丸本舗」(昨年10月、丸善本店に生まれたショップインショップ)のような前向きな例もありますが、それらはディープな読者向けです。一般的な読者はリアル書店に行かない、アマゾンで買っているという現実を直視しておかなくてはいけないと思います。

 それでもネット情報を含めれば、日本人は活字に接する時間は長いという意見があります。しかし今の状況は、1億人による「一人カラオケ」のようなもので、ブログやツイッターが誰もを表現者にしたとは僕には思えません。いわゆるネット小説が、読み終わった後に世界が違って見えるような体験を、はたして与えられているのか。「私と同じ事を考えている人がいる」程度のことしか読者に伝えられないとしたら、それは僕が考える本を読む体験とは違います。

読書体験とは、自分の星座をつくる過程

――「電子書籍時代」の到来は、出版業界や読書を巡る環境をどう変えると考えますか。

 これはいい悪いではなく、書店というのは少なくなっていくでしょうし、取り次ぎや出版社も今のような形からは大きく変わると思います。出版社はある作家なりジャンル分けで、少数のスタッフがサテライト的にチームを組むような形になっていくのではないでしょうか。ただそのことを、出版業界は怖がることはないと思います。グーテンベルグが知や情報を権力の手から開放して500年。ここまでもったその仕組みの転換期に遭遇できたというのは、むしろ面白いことだと思います。

 それと大きな産業構造で見た時、出版文化を誰が担っていくかということがあります。出版社がもっと目先がきいていれば、自分たちで土俵を作れたかもしれません。しかし今、コンテンツビジネスで凱歌(がいか)があがっているのは情報通信企業です。はたして彼らが文化を語る時代になるのか、ということですね。

――出版文化を継承していくために、業界は生活者にどう働きかけていくべきでしょうか。

 難しい問題ですが、「本には自分の知らない世界があるんだ」という気づきを与えることがその一つですし、その方法はあるのではないかと思います。

 僕は13 歳の時、宮本常一の『忘れられた日本人』を読んで感動し、彼の評伝を50歳の時に書きました。彼は10万点もの、日本の津々浦々の写真を残しました。宮本さんの撮った写真は一見当たり前の風景ですが、風景の中に彼は、そこに住む人たちの意志を読み取っています。それは「政権交代」とか「挙党一致」のような四文字報道とは間逆の「小文字」の世界であり、またそれが可能だったのは彼に風景や人の心や営みを“読む力”があったからです。そんな力をつける一番手っとり早い方法が、本を読むことなのは今も変わりません。

 また読書体験というのは、星座にたとえることができます。例えば『銀河鉄道の夜』に感動した人にはそれぞれ、その先にまったく別の読書体験が広がっているわけです。ある人はこの作品が、賢治が樺太を旅した体験がベースになっていると知り、樺太鉄道に関する本を読むかもしれません。またある人は宇宙や物理学の本を手にとるかもしれません。天空の星と星を関係づけて形を描くように、無数の本の中から独自の星座を描いていくわけですね。近年、読者にそういった思わぬ出会いを用意する、「地雷」の埋まった書店が少なくなり、ネットがその役割を果たしているといわれます。ところがネットというのは直接的に情報に着弾するため、飛ぶ方向の怪しいミサイルでも、着弾地点が価値ある情報だと思いがちです。そこをどう克服していくかが、ひとつ大きな課題だと思います。

佐野眞一(さの・しんいち)

ノンフィクション作家

1947年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業後、出版社勤務を経て、ノンフィクション作家に。 97年、『旅する巨人』で第28回大屋壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年、『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞受賞。著書に『凡宰伝』『小泉政権―非情の歳月』など。開高健ノンフィクション賞選考委員。