制約のない自己表現は豊かな発想の源泉になる

 アサツー ディ・ケイ(以下、ADK)のクリエイティブ・ディレクター 高野文隆氏は、マスメディアとデジタル、双方の領域を横断するコミュニケーションのプランニングを手掛けている。カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル2016では、サイバー部門の審査員を務め、ADKとワン・トゥー・テンの共同プロジェクトチーム「NOIMAN」にも参画。テクノロジーとクリエーティブを融合した先進的なアイデアの研究開発にも取り組んでいる。

ラジオの番組制作で味わった、もの作りの楽しさ

──どんな子ども時代でしたか。

高野文隆氏 高野文隆氏

 中学生の頃、放送委員会に入っていました。放送委員の活動とは別に、放課後に放送室の機材を勝手に使って、友だちと架空のラジオ番組を作って遊んでいました。当時、ラジオの音楽番組から派生した「スネークマン・ショー」というレコードがはやっていて、それをお手本に「中学生版のスネークマン・ショー」を作っていたのです。「スネークマン・ショー」は、シニカルなジョークがちりばめられているのが特徴だったので、自分たちも実在の先生をネタにしながらサブカルっぽい視点でラジオ番組を作り、カセットテープに吹き込んだものを友だちと一緒に聞いて楽しんでいました。

 大学時代は、たくさんアルバイトをしていました。その中で特に印象に残っているのが、大学生だけでラジオ番組を作るというアルバイトです。有線放送で流すためのラジオ番組で、私はドラマの担当。シナリオ作りから演出、出演まで全部自分たちで作っていました。今思えば、有線放送のユーザーの裾野を広げることが狙いだったのだと思いますが、当時はそんなことは気にせず、ラジオ番組という「もの作り」を素直に楽しみながらやっていました。

──広告業界に入ったきっかけは。

 学生だけでラジオ番組を作るアルバイトが非常に楽しくて、就職活動ではラジオ局も受けていました。ところがあるラジオ局の役員面接のとき、「あなたは面白そうな人だから入社してくれたらうれしいけれど、ラジオに限定するのはもったいないのでは」と言われたんです。リップサービスだったとは思いますが、それで視野を広げてテレビ局や出版社も受けてみることにしました。興味の幅が広くて、ほかにも金融や外食産業も受けていたのですが、いろいろ受けていたら、一つの業種に絞ることができず迷ってしまった。そんなとき、いろんな業種を全部カバーできる広告という面白そうな仕事があることに気づいたのです。そこから広告業界を目指し、ADKの前身、第一企画という広告会社に就職しました。それから10年くらい、CMプランナーとして、テレビCMやラジオCMを制作していました。

──一度、ADKを退職されました。

 CMプランナーとして働きながら、仕事の合間にプライベートでラジオ番組のようなものを作っていました。どこかで発表するとか、プレゼンするとか、特に目的があったわけではなく、プロトタイプのようなものを自作していたのです。それを友だちに聞いてもらっていたら、面白いから本物のラジオ番組にしてみたら、と言ってくれました。ちょうどその頃、コミュニティFMの「SHIBUYA-FM」が開局されたばかりで、個人でもスポンサーになれることが分かりました。それで、友人たちとお金を集め、深夜15分間の枠を買いました。半年間にわたって、64話のラジオドラマを実際に放送しました。「一人の女の子が虚実入り交じったストーリーをモノローグで語る」という内容でした。企画からシナリオ、演出、選曲まで全部ひとりで手掛け、プロのナレーターに語ってもらっていました。

 自分たちがスポンサーなので、かなり好き勝手に作っていました。もちろん考査やクライアントチェックもありません。本業の広告制作とは正反対の活動だったので、いざ普段の仕事に立ち返ると、今まで以上に様々なことが制約に縛られていると感じてしまいました。定型的な広告パターンに慣れてきてしまったこともあると思います。モチベーションが上がらないまま仕事をするのは、クライアントにも申し訳ないと、一度広告の仕事を辞めることにしました。

 辞めていた期間は、世界中を旅していました。単に放浪するほど若くなかったので、自分の頭の中にある世界のイメージと現実がどれぐらい違うか、自分の目で見てすり合わせをしてみようと考えました。例えば、エジプトのスフィンクスは、張りぼてっぽくて、ラスベガスにあるニセモノみたいだし、なんとなく怖そうなイメージがあったイランの人は、実は人懐っこい人ばかりだし。ある意味、自分を含めて世の中の多くの人が、「壮大な知ったかぶり」の中で生きているのではないかと思ってしまいました。すべてがリセットされて、精神的にニュートラルになりました。

──その後、ADKに再就職されました。

 「メディアニュートラル」という言葉が登場した頃、それを実行するための部署がADK内に立ち上がりました。そこのボスから、従来型のマス広告とは違う発想を持つクリエーターを必要としているので、もう一度仕事をしてみる気はないか、と声をかけてもらったのです。久しぶりに会社に行くと、若手にチャンスを与えようという機運が感じられ、会社の雰囲気はずいぶん変わっていました。テレビCMやラジオCMではない、何か新しくて実験的なアプローチを目指す、という話に共鳴し、再び採用試験を受け直す形で再就職することになりました。

 ちょうどインタラクティブとかバイラルという言葉がはやり始めてきた頃で、その部署には2年ほど在籍して、色々と実験的な提案をしました。しばらくして、コミュニケーション・アーキテクト局(現在は本部)というマスとデジタルを統合したキャンペーンを手掛ける部署が立ち上がり、そちらに異動しました。その後、ADKとワン・トゥー・テンが共同で設立したプロジェクトチーム「NOIMAN」に参画し、今はテクノロジーとクリエーティブを融合した先進的なアイデアの研究開発にも取り組んでいます。

──転機となった出来事は。

 特定の案件というよりも、特別な人たちとの出会いが転機となっています。特に糸井重里さんと大貫卓也さんとの出会いには大きなものがありました。お二人それぞれと仕事をすることで、世の中には天才というものが実在するのだと思い知らされました。僕から見ると糸井さんは、自分のアイデアを出発点にして、様々なクリエーターを集めて化学反応を起こしながら新しいものを作り上げていく、プロデューサー型の天才。大貫さんは、最終的なビジョンが細部まで鮮明に見えていて、それを実現するために人を巻き込んでいくアーティスト型の天才です。広告業界で働いていると、いろんなことを知った気分になりがちで、「天才といえども、しょせんは同じ人間でしょ」なんて思いがちです。しかし、実際に本物の天才に接すると、次元がまったく違うことに愕然(がくぜん)とします。そしてその上で、その領域には容易に踏み込めないことを自覚して謙虚になります。結果的に、前向きな気持ちで「自分ができる範囲を掘り下げていこう」と思えるようになりました。

世の中に対する違和感をクリエーティブのヒントにする

──アイデアを生み出す上で工夫していることは。

 仮説から考えるようにしています。世の中に対する違和感を探し、それをクリエーティブのきっかけにするのです。仕掛けや流行している技術などからアイデアを考えると、新しい表現は生まれにくい。どこかで見たことのあるキャンペーンになりがちです。一方、起点を仮説にすることで、今までにない表現が生まれる可能性があると思っています。世の中に対して、どういう意見を持っているか。自分の意見を持つことは、クリエーティブには必要なことです。

 例えば、ニュージーランド航空のキャンペーン「ニュージーランド専用休暇申請書」では、ネット上で上司に気軽に休暇申請できる仕組みを考えました。この企画のアイデアのきっかけは、「なぜ日本人は休暇を『取らせていただく』と言うのか」「夏休み明けに会社に行くと、なぜ後ろめたい気持ちになるのか」 といった休暇取得に対する違和感でした。そこを起点に全体フレームを構築し、チームで細部を詰めていきました。おかげさまでSNSで大きな反響を呼び、ブランド認知の大幅な向上とファンの増加につながりました。

ニュージーランド専用休暇申請書

ニュージーランド専用休暇申請書(アーカイブサイトはこちら

 またトヨタのハイブリッド技術のPRムービー「TOYOTA BARISTA」では、「なぜ機能紹介ビデオは退屈なものが多いのか」という視点から出発。技術デモやスペックをイベント型のエンターテインメントにする、というコンセプトを考えつきました。具体的には、サーキットを一周するレーシングカーが、ブレーキによって蓄積するエネルギーで、大量のモーニングセットをつくるというムービーを制作し、こちらは国内外300万人以上のユーザーに視聴され、180以上のメディアに取り上げられました。

TOYOTA BARISTA

TOYOTA BARISTA(アーカイブサイトはこちら

──カンヌライオン2016ではサイバー部門の審査員も務めています。

 一番印象に残ったのは「そもそもサイバーというカテゴリーは必要なのか」という議論になったことです。サイバー部門はすでに20年もの歴史を持ち、もはやデジタルで駆動しないキャンペーンはなく、SNSがなければ情報は流通しない。審査員長自ら「自分はサイバーを定義できない。サイバーらしいサイバーとは何か、審査を通して考えていきたい」と発言し、それに対して審査員全員がさまざまな角度から意見を戦わせるという毎日でした。エントリーの内容も、カンヌのすべてのカテゴリーの縮図のようなごった煮感があって、デジタルが特別なものではなく、本当に日常的になったのだと感じました。

──新聞広告に対する意見は。

 情報を伝達するだけであれば、スピード感も拡散力もネットのほうが有利ですよね。新聞ならではの有用性である「紙でないとできないこと」に、どれだけフォーカスできるか、新しい体験や価値をどう生み出せるか、が大切だと思っています。

 最近、若い世代を中心にラジオ、フィルム付きカメラ、カセットテープなどが注目されています。10代や20代の若者にとっては「新しいメディア」だからです。新聞も蘇生する、従来の価値を取り戻す、という方向ではなく、ニューメディアという位置づけで、ゼロから発想すると面白くなると思います。我々のチームもちょうど、実験的なアプローチを提案しているところですが、新しいコミュニケーションの方法論を生み出せるのではないかと思っています。

──最後に、若手クリエーターに向けてのメッセージをお願いします。

 仕事とは別に、自分の得意とする領域で100%満足するものを作っている人は強いと思います。なんの制約もなく自分の好きなものを制作して発表することは、実はすごく恥ずかしいものです。私がプライベートでラジオ番組のようなものを作っているときも、こんなものを聞かせたら、おかしなやつと思われないかと気にしたりもしました。でも、思い切って人に聞かせていくと、意外な気づきがあったり、思わぬ人とつながりができたり、熱狂的なファンが生まれたりしました。企画の発想や人の巻き込み方や資金の集め方など、ふだんの仕事とはまた違った角度から必要なことを学べたりもします。

 特に広告の仕事は、気づかないうちにアイデアを自主規制して、口当たりの良いものにしてしまいがちです。しかしそればかりやっていると、行き詰まってきます。そうならないためにも、一切の制約を外して、どこまで自分の内側をさらけ出せるのか、試せるような場をつくってみたらいいと思います。面白い発想を持っているクリエーターは、仕事とは別に作家として活動していたり、お金にならないプロジェクトをやっていたりします。自由な発想を持ち続けるためにも、誰も踏み入らせない自分の領域があった方がいいと思っています。

高野文隆(たかの・ふみたか)

アサツー ディ・ケイ クリエイティブ・ディレクター/コミュニケーション・アーキテクト

アサツー ディ・ケイ(旧:第一企画)にクリエイティブ職として採用。TVCMを中心に数多くのキャンペーンを担当し、2009年からはデジタル領域も手掛ける。現在は戦略からアウトプットまで一貫してデザインするコミュニケーション・アーキテクト本部に所属。マスとデジタルを横断した次世代型のキャンペーンを得意とする。2014年、ワン・トゥー・テンとの戦略的業務提携により、デジタルクリエイティブに特化した専門部局「NOIMAN」を立ち上げ、全体統括を務める。 カンヌライオンズ2016 サイバー部門/2014 プロモ&アクティベーション部門 日本代表審査員。