「ナラティブ」

 起きたら頭が痛い。二日酔いか。いや、せきも出る。どうやら風邪だな。飲んで帰って部屋でうたた寝をしてしまったからか。あれで冷えたに違いない。ここのところちょっと疲れていたから、免疫力が下がってるのだ。

  客観的にどうであるかは別として、人は自分のことをよく知っている。症状から考えて、それが何であるのか、なぜそうなったのか、どうなりそうなのか。症状がひどくなって医者にかかる前に、すでに人はこうしたことを自分で説明できる。客観的に症状を把握しようとする医師の質問は、ときとしてうっとうしい。医師の所見と自分が思っていることが違うと、なんだか納得できない気分になるし、医師や治療法を疑う気になることさえある。納得できないまま治療を続けると、効果はなかなか上がらないこともある。人はかくも主観で生きているものなのだ。

  こうした患者の主観的な説明を大切に聞き取りながら、患者とともにその症状について考え、治療を進める医療があり、ナラティブ・ベイスド・メディシン(NBM)といわれている。医師が持っている専門的な所見を押し付けるのではなく、あくまで患者の主観説明を尊重しながら、対等に医師の見方とすり合わせて主観的な納得を築こうというアプローチである。

  幼児教育の現場でも、子どもたちの行動を観察するときに有効なツールとして「ナラティブレコード」が活用されている。友達との関係ややりとりを幼稚園の先生などの目から見て客観的に記述するのではなく、子どもの目を通して描くように書き起こし、子どもに起きたことを主観視点で追認するアプローチだ。大人は幼児にはなれないが、このようなトレーニング次第で、大人からは見えにくい様々な事柄や感情が見えるようになる。

  ナラティブとは主観視点で語られるストーリーのことだ。日本語ではナラティブもストーリーも「物語」と訳されるが、ニュアンスは異なる。ストーリーとは、起承転結、理由や因果、関係や影響、そういった情報がセットになって一連の文脈をなしているもののことだ。客観的な視点であろうと主観的であろうと成り立つもの。一方のナラティブは、当人の頭の中ではそれでちゃんと意味が通じていたとしても、ときとして他人が聞いて納得できるような文脈を欠くこともある。

  主観心象であるから、ナラティブはブランドやマーケティングと深い関係がある。どのブランドを信じるか、どの商品を選ぶか、価値についての評価や態度はいつも主観的で個別的だ。たとえ最も客観的なものに見える機能的なベネフィットであっても、個々の人の頭や感覚で捉えられ、その人の主観的な世界の秩序、つまりナラティブの中で位置づけられてはじめて意味となり、態度や行動につながるのだ。

  ところが、ビジネスの現実の中で、マーケティングはこうした主観性、個別性を捉えることが苦手だ。リサーチにしても、商品設計も、どんなに顧客視点が大切だとわかっていても、ついついマスといわないまでも抽象的で仮想的な「ひとまとまりの人々」について結論付けようとする。個別の人により過ぎることで、一般性を失って機会損失をきたすことを恐れるからだ。しかし、こうした客観的な解釈は、医学的な見地から所見というストーリーを押しつけ、ナラティブを潰す医者と同じだ。効果はあろうが、ほんとうに人の中にある意思や気持ち、見えているものに迫りきれない。

  一方、人はとどのつまり個々の異なった主観に生きているのだ、と割り切ったアプローチもマーケティングのなかで模索されている。

 思いきり具体的な一人の個人、つまりペルソナを描いてその人のナラティブを想像し、そこに見えるものを拾い上げていく、そう、幼稚園の先生と同じような人間の理解のしかた。コミュニケーションも、ブランドのメッセージを押しつけるのではなく、人が自らのナラティブに取り入れることができるような文脈、つまりストーリーをそっと差し出すようなアプローチ。人は主観世界に沿うように、あるいはそれを補完するように、相当選択的に外の情報を取り入れるものだ、ということを踏まえたやり方だ。様々なブランド施策も、影響を及ぼしたりコントロールしようとするやり方ではなく、むしろ人々のコミュニティに入っていき、人々のナラティブの束の中に沿うようにブランドのふるまいを作り出すようなやり方。

 結局、主観性、個別性を尊重したアプローチは、消費者や顧客というものをただ対象として客観的に見るだけではなく、むしろ同じ方向を向き、同じ地平に立って対等につきあう所作になっていくのである。

 ナラティブとは、こうしてみると「ブランドと人間とのつきあい方」を示唆するキーワードなのだと思う。