金森努のロングセラー商品の戦略を聞く!

Vol.1 岩波書店『広辞苑』

 今回からスタートする「ロングセラー商品の戦略を聞く!」は、マーケティングコンサルタントの金森努氏が、さまざまなロングセラー商品の歴史や現在の戦略などを企業の担当者に聞き、長く支持され続ける秘訣(ひけつ)に迫ります。第1回で取り上げるのは、1955年に刊行され、今日までに累計1,100万人の読者を持つ国民的辞書へと育った岩波書店『広辞苑』です。辞典編集部課長の平木靖成氏がインタビューに答えました。

国語辞典と百科事典を一冊に凝縮する

金森氏 『広辞苑』は2008年1月に10年ぶりの改訂となる第六版が刊行されましたが、まずは歴史をさかのぼって誕生の経緯からご紹介ください。

平木氏 『広辞苑』の編者である新村出(しんむらいずる)先生は、1935年に『辞苑』という中型国語辞典を博文館から出されています。新村先生は『辞苑』を全面的に改訂したいと考えられ、岩波書店が引き受ける形で編集がスタートしたのが『広辞苑』です。「新」や「大」でなく、「広」の一字をなぜ加えたかは伝わっていませんが、言葉の苑(その)を広げるというイメージがあったのかもしれません。

平木氏

金森氏 半世紀以上の歴史を通じて、『広辞苑』が今日まで継承してきた提供価値、あるいはコンセプトとは何だとお考えですか。

平木氏 これは改訂を重ねる中で受け継がれた口伝のようなものですが、「国語辞典と百科事典の役割を、一冊に凝縮する」ということです。つまり『広辞苑』を引けば、言葉の基本的な意味がわかる。それと収録するのは、日本語として定着した言葉、これからも使われ続けるであろう言葉だということです。

金森氏 言葉の流行を追うのではなく、日本語による知識の入り口になるということですね。実は私の父も、本棚に多巻ものの大百科事典があったのに、中学生だった頃の私にまず『広辞苑』を引くことを勧めていました。入り口だからこそ、精選された知識に我が子を触れさせたかったのかもしれません。

平木氏 『広辞苑』が生まれた50年代中頃は、戦後の荒廃から立ち直った日本人が、教養や文化を欲していた時代です。一家に一冊、分厚いけれど片手に持てる辞書がある。そんな家庭像が一般的に思い描けるようになっていたのでしょう。

あるべき姿と読者の期待との間で重ねた改訂

金森氏

金森氏 初版の収録項目は20万語。以来、5回の改訂を経て第六版では24万語だそうですが、一貫した改訂方針や特筆すべきポイントはありますか。

平木氏 『広辞苑』というと、現在では規範的、保守的なイメージが定着していますが、実は表記面では最先端を目指した辞典なのです。例えば初版では、当用漢字(当時)以外の漢字でも、近い将来定着すると考えていた新字体を使っています。ところが新字体の普及はすぐには進まず、第二版で多くを正字体に戻しました。また見出しの仮名表記についても「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は、前もってどちらかの仮名をつかうか知らないと引けないのでは読者に不親切と考え、すべて「じ」と「ず」で表記する表音主義をとっていました。しかしこれも現代仮名遣いが浸透したことで、第四版から改めました。

金森氏 第六版でも、そういった見直しはあったのでしょうか。

平木氏 『広辞苑』には「送り仮名は少なく」という編集方針がありますが、第六版では動詞の送り仮名を学校教育に合わせる変更を行っています。例えば「変る」という従来の表記を「変わる」に変更しました。

金森氏 自分たちがあるべき姿としていたポジショニングを、世の中のとらえ方やニーズに合わせて修正することでロングセラーとなり、「広辞苑らしさ」が育まれたわけですね。次は競合との差別化ポイントについてお聞かせください。一般に中型国語辞典のライバルといえば、三省堂の『大辞林』が挙げられますが。

平木氏 『大辞林』は後発商品ですから「広辞苑はこうですが、大辞林はここが違いますよ」といった広告手法がとれます。三省堂は辞書作りのご経験が豊富で参考になる部分もありますが、それに合わせ過ぎれば『広辞苑』でなくなってしまいます。例えば『広辞苑』の国語の意味記述の順序は、日本語の意味の移り変わりに従うのがルールです。ですから「やさしい」という言葉は、一番に「身も痩(や)せるように感じる」とあり、現在一般的に使われている意味は後に登場します。

金森氏 後発のよい部分は取り入れつつも、単に意味を知る利便性だけでなく、「言葉の博物館」的な立ち位置は崩さない、と。

平木氏 読者に、歴史を含めて日本語に向き合っていただきたい思いはありますね。

平木氏 金森氏

平木氏 金森氏

膨大な情報の中で、簡潔で信頼に足る知を

金森氏 ここからは第六版についてうかがいます。ロングセラーが生き残る秘密のひとつに、「商品バリエーションを増やす」というパターンがありますが、これは『広辞苑』には当てはまりません。時代に合わせて、自らが変化するということでしょうか。

平木氏 第六版では全項目を再検討し、従来以上に言葉の新しい意味や用法の広がりに目を配りましたが、やはり意識したのは言葉や情報を取り巻くネット環境です。近年は、ネットで検索すれば情報がいくらでも得られます。しかし、どこまで確かか分からない情報を何千字、何万字と読むよりは、『広辞苑』でまず40字読んでいただけば簡潔で明解な知識が得られます。これは今の時代だからこそ意味のある『広辞苑』の役割だと思います。

金森氏 メディア環境の変化が、「正しくかつコンパクト」という『広辞苑』の提供価値をより明確化させたともいえますね。これは食品のロングセラー商品の例ですが、日清食品の「カップヌードル」のバリエーションに「ミルクシーフードヌードル」という商品があります。これは「シーフードヌードルに熱い牛乳をかけるとおいしい」というユーザーの声を開発者が拾って、商品化されたものなんですね。『広辞苑』の新語選定は、どういった形で世の中の声を吸い上げているのですか。

平木氏 もともと『広辞苑』には、読者の方からの問い合わせやご要望が日々たくさん寄せられていて、その情報のストックをいかに次の版に反映するかが改訂作業の大きな部分です。ネットでの問い合わせも増えていますが、不思議なことに手紙や電話と質的な変化はありません。ただ今回は、携帯電話版のユーザーの方が検索した言葉の中で、広辞苑の検索でヒットしなかった文字列のリストを携帯電話会社から提供していただきました。『広辞苑』の場合はその上位から載せればいいわけではありませんが、ユーザーの利用実態を新しい角度から量る試みもしています。

一つひとつの項目を磨く、それが『広辞苑』の進化

金森氏 『広辞苑』で「定番」という言葉を引きますと「1.安定した需要のあるもの」と書かれています。とはいえ、昨今は書籍や活字媒体に安定した需要があるとはいえなそうです。そうすると新しい需要喚起や需要の維持のためのアクションが必要になってくると思うのですが。

平木氏 ビジネスの上では電子版のコンテンツ供給の重要は増していますが、岩波書店としてプロモーションを行うのはやはり書籍です。第六版では、本としての話題づくりや、紙の辞書のよさをアピールすることに重点を置きました。

ユニクロとのコラボTシャツを販売 ユニクロとのコラボTシャツを販売

金森氏 ユニクロから『広辞苑』で使用されている挿絵をデザインしたTシャツが発売されたり、「ことばには、意味がある。」というテーマの下に、手塚治虫さん、太田光さん、吉田美和さんなど8人がそれぞれのキーワードと共に登場する広告を展開するなど、若い読者層への意識も感じました。

新聞各紙に発売の告知広告を掲載

新聞各紙に発売の告知広告を掲載

平木氏 紙の辞書の将来に対して危機感をもっていることは事実です。初刷のタイミングで話題を盛り上げなければ、後で部数を持ち上げることは難しい。ですから今回は「予約をしていただく」ということに重点をおいたんですね。それが話題にもなり、部数をある程度伸ばすことにもつながりました。

『広辞苑』第六版新発売キャンペーン。広告、PR、異業種コラボ、店頭など立体的なプロモーションで話題を最大化した。

『広辞苑』第六版新発売キャンペーン。広告、PR、異業種コラボ、店頭など立体的なプロモーションで話題を最大化した。

金森氏 最後に次の第七版に向けては、どのようなことをお考えですか。

平木氏 10年後のメディアのあり方や、広告のあり方は未知数としかいえません。しかし編集としては、何か大きな方針を変えることよりも、一つひとつの項目を見直し、時代にふさわしい言葉を広辞苑らしく取り入れていくことに尽きると思っています。第六版の改訂の最中でも、「次回の改訂時まで先送りだ」という課題もありましたし、読者の方からの声は今も毎日届いていますから。

金森氏 読者との間で構築されている関係を、細部の積み重ねによって維持し、高めていくということですね。本日はありがとうございました。

平木靖成

辞典編集部課長

宣伝部を経て、1993年から辞典編集部。『広辞苑』改訂には第五版、第六版で携わっている

取材を終えて

 ロングセラーの条件は、「頑固なこだわり」を持ちつつも、時代の変化と顧客のニーズに対応する「柔軟さ」を併せ持つことです。その意味からすると、広辞苑はまさに半世紀以上にわたって売れ続ける条件を兼ね備えていることが分かります。しかし、10年という長い時間の流れの中で改訂を重ねるため、他カテゴリーのロングセラー商品にはない「熟成」という要素を付け加えています。顧客の要望も、すべてを取り入れてしまっては「こだわり」もブレてしまう。検討を重ねる10年間を経て、改訂がなされるわけです。美酒が樽(たる)の中で価値を高めるべく活動しているように、今日もまた、次の改訂に向けて編集部では作業が続いていることでしょう。(金森 努氏)


金森 努氏

金森 努(かなもり・つとむ)

有限会社金森マーケティング事務所取締役社長 東洋大学経営法学科卒。大手コールセンターに入社。本当の「顧客の生の声」に触れ、マーケティング・コミュニケーションの世界に魅了されてこの道20年。コンサルティング事務所、電通ワンダーマンを経て、2005年独立起業。青山学院大学経済学部非常勤講師(ベンチャー・マーケティング論)、グロービス経営大学院客員准教授(マーケティング・経営戦略)、日本消費者行動研究学会学術会員

HISTORY

1935年 言語学者・文献学者の新村出を編者に『辞苑』が博文館から発行される

辞苑


1955年 『広辞苑』初版発行

1955年5月25日付 朝刊 全5段

1955年5月25日付 朝刊 全5段

広辞苑初版

『辞苑』を全面的に改訂・増補。百科事典を兼ねた国語辞典に。

  • 収録語彙約20万語
  • 発行部数100万部
  • 定価2,000円
    ※当時の大卒公務員の初任給は9,000円


1969年 『広辞苑』第二版発行

1969年 『広辞苑』第二版発行 1969年5月16日付 朝刊 全5段
  • 収録語彙約20万語
  • 発行部数約230万部
  • 定価3,200円 ※当時の大卒公務員の初任給31,000円
  • 主な新収項目:愛車/重きをなす/面(おもて)を曝(さら)す/下舵(さげかじ)/スモッグ/寸借/中間色/電波天文学/ナレーター/必見/標準化石/マナー/ユースホステル/レスラー


1976年 『広辞苑』第二版補訂版発行

  • 発行部数約230万部
  • 定価4,600円
  • 初めて文字の大きな「机上版」(B5判)も刊行


1983年 『広辞苑』第三版発行

1983年 『広辞苑』第三版発行 1983年12月6日付 朝刊 全5段
  • 収録語彙約20万語
  • 発行部数約260万部
  • 定価5,800円 ※当時の大卒公務員初任給約109,100円
  • 主な新収項目:熟年/宅配/嫌煙権/五月病/自然食/ダイエット/省エネ/カラオケ/ジョギング/ムック/パソコン/ワープロ/サミット/環境アセスメント/生涯教育/スペースシャトル/液晶
  • 第三版からコンピューター組版を導入
  • CR−ROM版を1987年に刊行


1991年 『広辞苑』第四版発行

1991年 『広辞苑』第四版発行 1991年11月15日付 朝刊 全5段
  • 収録語彙約22万語
  • 発行部数約220万部
  • 定価6,500円 ※当時の大卒公務員の初任給約168,000円
  • 主な新収項目:森林浴/いまいち/単身赴任/秘湯/過労死/回転寿司/コンセプト/レシピ/DCブランド/フレックスタイム制/財テク/中性紙/ICカード/電子手帳/酸性雨/フリーター/飲茶(ヤムチャ)
  • 1992年 第四版の姉妹版『逆引き広辞苑』を刊行。同年には電子辞書にも搭載


1998年 『広辞苑』第五版発行

1998年 『広辞苑』第五版発行 1998年1月11日付 朝刊 全5段
  • 収録語彙約23万語
  • 発行部数約100万部
  • 定価7,300円 ※当時の大卒公務員の初任給約184,000円
  • CD−ROMも同時刊行
  • 主な新収項目:朝一/一押し/裏技/茶髪(ちゃぱつ)/ストーカー/携帯電話/テーマパーク/シエスタ/ボーダーレス/フリーズドライ/環境税/介護保険/生活排水/HIV/インターネット/ホームページ/GPS
  • 2001年には携帯電話での利用を可能にし、急成長した電子辞書とともに『広辞苑』活用の幅を広げた


『広辞苑』第六版発行

『広辞苑』第六版発行 2008年1月11日付 朝刊 全15段
広辞苑 第六版
  • 収録語彙約24万語
  • 定価8,400円
  • 巻末の付録を日本語に関する簡便なハンドブックとして別冊化
  • 机上版を二分冊に
  • 主な新収項目:ニート/うざい/めっちゃ/癒し系/顔文字/ブログ/メタボリック症候群/逆切れ/いけ面/ラブラブ/ウルトラマン/おしん

第六版は情報通信、金融・経済、環境に関する新収項目が増加。地方語、地域事項や昭和の事項も重視された。

※ 新語の選定にあたっては、その言葉の使用頻度、重要度、定着の度合いなどを総合的に評価される。一過性の流行で終わってしまうような言葉は採用されない。

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Vol.1 岩波書店『広辞苑』

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