「出会いを発明する。夢をカタチにし、人をつなげていく」ための集団、goen°を主宰する森本千絵さん。新聞広告、CM、映像分野のアートワーク、ミュージシャンのCDや宣伝グッズのデザイン、舞台美術、プロダクトデザイン、空間デザインなど幅広く活動。出産を経て、さらに活躍の場を広げている。
前代未聞だった「ほとんど余白」の新聞広告 掲載日の早朝、朝日を浴びながら号泣した
──どんな子ども時代でしたか。
友達へのバースデーカードにイラストを添えたり、学芸会のために替え歌を作ったりと、誰かのために表現することが好きで、絵やアイデアを書き留めるノートもありました。やがて、大貫卓也さんが手がけたポスターや、佐藤雅彦さんが手がけたCMなど、広告に興味を持ち始めました。家では新聞を3紙とっていたので、新聞広告もたくさん見ていました。
谷川俊太郎さんの翻訳で読むスヌーピーの物語など、哲学的なコミックや児童書も好きでした。多感な中学時代には、ベネトンのメッセージ広告や『COLORS』という雑誌に影響を受け、亡くなった兵士の服を写したポスターなどを見て「社会的なメッセージを広告で表現したい」という思いにかられました。
──美大に入学しました。
大学に入るとますます広告に夢中になり、カンヌライオンズや、朝日広告賞の受賞作品にあこがれました。なぜか、コピーライター養成講座にも通っていました。広告雑誌を見て「広告の勉強ができるらしい」と思って申し込んだら、美大生は私一人、全くの門外漢だったという……(笑)。初回の講師は眞木準さんで、講師陣はそうそうたる顔ぶれでした。
コピーライター養成講座に通ったことは、結果的にすごく良かったと思っています。テクニック以前の根本的な考え方を学ぶことができました。考えを言葉にし、ビジュアルとかけ算して立体的に構築する訓練にもなりました。
創作も熱心にやり、過去の名コピーにビジュアルをつけたり、好きなブランドの広告を作って広告会社に持ち込んだりしていました。博報堂の入社試験に際しては、それらを大量に運んだものです。入社後、「森本は2トントラックで作品を運び込んだ」とずいぶん冷やかされました(笑)。
──入社当時をどう振り返りますか。
アイデアをようやく世に出せると意気揚々でした。ところが、先輩の宮崎晋さんから「君は型にはまっている」と言われてしまって。その言葉を重く受け止め、大学時代に築き上げた型を崩す道を模索し始めました。
最初に配属されたCM制作を中心とした黒須美彦チームでは、広告の仕事が、チームのメンバーやクライアントと意見をすりあわせながらの共同作業であることを思い知りました。あたり前のことなのですが、自分のレースがしたくて気がせいていたので、走り出した途端に足をつかまれ、顔から地面に突っ伏した気分でした(笑)。
──入社翌年、準朝日広告賞を受賞しました。
あこがれの賞だったので感激しました。受賞後は先輩から仕事を頼まれるチャンスが増え、松井美樹さんが「Mr.Childrenのベストアルバムの新聞15段広告を考えてみないか」と声をかけてくれました。
既存にない、見た人がハッとするような広告を作りたくて、まっさらな紙面に水が数滴落ちたようなビジュアルを完成させました。水滴で裏写りしている箇所をよく見ると、アルバム発売の情報が読み取れる仕掛けです。
実際に朝日新聞の印刷現場に立ち合い、ギリギリまで刷り具合の調整をしました。その後、掲載日当日の朝日を浴びながら号泣しました。全国紙上で「ほとんど余白」の広告は前代未聞、「苦情が来た時に備えて説明文を書いて」とも言われていて、張りつめ通しだったんです。幸い苦情はなく、むしろ前向きな反響が多くてホッとしました。
Mr.Children (トイズファクトリー )
Mr.Childrenのベストアルバムは、交通広告も制作しました。沖縄の人たちと防波堤に歌詞や絵を描き、水滴撮影の時も協力してくれた瀧本幹也さんのカメラがとらえました。この作品は東京ADC賞を受賞しました。
──クリエーターとしての転機は。
フランク・ミュラーの広告と、キリンビールの「8月のキリン」の広告は、Mr.Childrenの広告と並んで大きな転機となりました。いずれもメディアの枠組みを超えて商品の世界観を構築した、自分の基点と言える仕事です。
フランク・ミュラーの依頼は雑誌広告でしたが、時計の動きを表現するためにアニメ動画を制作。カンヌライオンズのショートリストに残りました。「8月のキリン」の依頼はパッケージデザインでしたが、一般人によるポスター制作、イメージソングの発売、恋愛小説の出版などを提案しました。参加型にし、思いをシェアしながらクオリティーを持った表現にしていく試みは、当時はあまりなかったと思います。
自分の役目は、夢のある現実を作ること 気づかせてくれたのは、娘という最高の未来
──入社8年目に博報堂から独立、goen°を設立されました。
独立前後から、広告の領域から踏み出した仕事が増えていきました。日本新聞協会の「HAPPY NEWSキャンペーン」、『育育児典』のブックデザイン、環境をテーマとする「ap bank fes」のグッズデザインなどです。その一方で、広告に憧れた初心に帰りたいという思いもあって、「世界に伝わるメッセージ」を目指してMr.Childrenのアルバム「HOME」のアートワークなどを手がけました。
その後、朝ドラ「てっぱん」のタイトルデザインを始めとする映像分野のアートワーク、舞台美術、保育園の空間デザインなど、社名の由来である“縁”があるものすべてに活動の幅が広がっていきました。
──クリエーティブポリシーは。
依頼主の希望に対して変幻自在の水のようにニュートラルに応じ、驚きやワクワクをプラスして返す。迷ったら、奇をてらう方ではなく明るい方へ行く。こうしたことを大事にしてきました。
──出産・育児の中で得られた新たな視点はありますか。
出産前の数年は、私にとって特別な時期でした。オンワード樫山の「組曲」、キヤノンの「ミラーレスカメラEOS」、松任谷由実さんのアルバム「POP CLASSICO」のアートワークなどを手がけた時期です。
松任谷さんとの出会いは個人的にも大きな出来事で、その創作活動を間近に見て圧倒されたと同時に、「テーマを与えられた方が自由になれる」という松任谷さんの言葉に共感し、私も松任谷さんから与えられたテーマに応えられるよう全力を尽くしました。
この時期、私の中で自己表現へのあこがれが猛烈に芽生え、やみくもに水彩画を描き始めたんです。松任谷さん、黒田征太郎さん、中村達也さんなど、偉大な表現者との出会いが重なり、自分の中でくすぶっていた表現欲に火がついたようで。そして、妊娠。ますます絵を描き、『おはなしのは』という絵本も作りました。自分は絵描きになりたいのだろうか。でも、広告も大好き。モヤモヤと悩んでいるうちに出産を迎えました。
──出産から数カ月で仕事を再開、精力的に活動しています。
不思議なもので、出産と同時に絵を描くことへの情熱が引き、代わって仕事欲が猛烈に強まりました。社長としての責任感や、若手の育成欲も強まりました。娘という最高の未来を目の前にして、「自分の役目は、仕事を通じて夢のある現実を作ることではないか」という思いに至ったのです。
仕事のスタンスも変わりました。以前は心のどこかで自分の表現ができる企業との出会いを待っていましたが、今は自分から出会いに行き、時間や予算の条件面が厳しくても、ちゃんと売れる、ちゃんと広まる、ちゃんと人気が出るものを作りたいと考えています。
──若手クリエーターに向けてメッセージをお願いします。
技術的なことも大事ですが、それ以上に大事なのはアイデアです。今の時代はいろいろなメディアがあって芽が出るチャンスが多い。そのぶん迷いやすくもある。そんな中でも、アイデアがあると強い。
アイデアはどうしたら生まれるのか。アイデアをひたすら出し続けるしかないと思います。つまらないと思っても止めてしまわずどんどん出す。最初は濁り水のようなアイデアでも、出し続けるとクリアになっていくものです。そしていつの日か、そのアイデアが自分自身を未来へと運んでくれることでしょう。
──今後、手がけてみたい広告は。
「移動して縁をつなぐ」ことに興味があるので、航空会社や電鉄会社など交通系企業の広告を手がけてみたい。また、飲料や食品系の企業などで、新しい文化につながるような企画を育てたいです。あとは、子どもが運営する会社を作ってみたい。子どものアイデアに無限の可能性を感じています。数十年後、当たり前となり愛されている何かを今、企業の方と取り組み、形にしていきたいです。
コミュニケーションディレクター・アートディレクター
1976年青森県三沢市生まれ。1999年武蔵野美術大学卒業後、博報堂入社。2007年に独立し、goen°(ゴエン)設立。2015年に一児の母となる。N.Y.ADC賞、ONE SHOW、朝日広告賞、アジア太平洋広告祭、東京ADC賞、JAGDA新人賞、SPACE SHOWER MVA、50th ACC CM FESTIVALベストアートディレクション賞、日経ウーマンオブザイヤー2012、伊丹十三賞、日本建築学会賞、など。東日本大震災復興支援CM、サントリー「歌のリレー」でADCグランプリを初受賞。