百年の蓄積生かし、日本の知の共通基盤築く

 日本を代表する学術出版社として、世界の古典を網羅する岩波文庫を筆頭にアカデミズムと大衆を結ぶ役割を果たし続けてきた。2013年には創業100周年を迎え、総合誌『世界』編集長を務めてきた岡本厚新社長のもとで「知の復権」を目指す。

岡本 厚 氏 岡本 厚 氏

 ――岩波書店を代表する『世界』の編集長を長く務めてきました。

 編集長として16年、編集部員としては1970年代末から関わっています。そのなかでも印象深いのは東日本大震災の直後に出した2011年の5月号です。

 余震が続き、原発が危機的状況にあるなかで、「今、ここで発信できないなら『世界』という雑誌には意味がない」と編集部員に呼びかけました。3月11日から校了まで2週間あるかないかという状況で著者の方たちに連絡を取り、原稿をいただきました。震災・原発関連以外の記事はすべて外し、タイトルはただ「生きよう!」と。この号は月刊誌としては異例の増刷が二度かかりました。

 読者が応えてくれたことで、『世界』という雑誌は危機や歴史的な転換点のときに参照されるメディアなのだという思いを新たにしました。

――本の復権は可能でしょうか。

 本の売り上げは確かに落ちていますが、本というメディアは世界的に必ず見直されると思います。何かを考える際に、あるまとまった長さの文章が必要になるのです。例えば原発についてきちんと考えようと思ったら、どういう政治的背景でできたのか、どういう利権構造があったのかとか、あるいは核燃料サイクルってどのようなものだろう、止めたらどうなるのかといったことも含めて考える必要があるでしょう。そういった知的欲求に応えられるのは電子であれ紙であれ、本というメディアだと思います。

 いま日中韓で領土をめぐる応酬が続いていますが、その議論はきわめて短絡的なものが多いと思います。自己中心的な狭い視野から抜け出すためには、お互いに理性の窓を開けて対話をすること、そしてその基礎には他者への想像力が必要です。豊かなコミュニケーションの元になる他者への想像力を育むものこそ、本の力、読書の力ではないでしょうか。

 ――読書の入り口である岩波文庫などにどう光をあてますか?

 古典には読み継がれてきただけの価値と意味があると思います。いま、企業のトップなどにも、若い人たちがあまりに古典を読んでいないことに危機感を持って、教養をもう一度再生させないとまずいんじゃないかと考えはじめている方々がいます。そういう人たちと一緒に何か復権の運動ができないだろうかと考えています。

 岩波文庫でいえば一つが新訳です。20世紀を代表する一冊とも言われるハイデガーの『存在と時間』やマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』など画期的な新訳が続きます。「知を大衆のものに」という創業者・岩波茂雄の思想を守りつつ、できるだけ安い値段で新訳を出していきたいと思います。

 もう一つは古典への光のあて方です。宮崎駿監督の推薦で岩波少年文庫が売れたり、資生堂の福原義春名誉会長が朝日の読書面で紹介して下さって『ご冗談でしょう、ファインマンさん』が売れたりといったことがありました。つまり、古い本でも面白さがうまく伝われば驚くほど売れるのです。岩波には文学にも思想にも名著という資産が数多くあります。これに光をあてる工夫をしていきたいと思います。

2013年1月1日付 朝刊 2013年1月1日付 朝刊

 ――新社長としての取り組みは。

 いままでは考えることといえば世界のことばかりで「社内」のことはなかなか・・・・・・(笑)。でも、これからはそうは言えない立場になりました。

 例えば新訳で出す『新版アリストテレス全集』はたしかにたくさんの人が読むものではないでしょう。しかし、アリストテレスは西洋文明の源のひとつです。この全集が出ることによって、日本においても、社会や政治の原理を考えていくときの基盤が精緻(せいち)なものになっていき、ひいては日本の文化の質の向上にもつながると思います。これは岩波だけではなくて、日本の多くの出版社が近代150年のなかで培ってきたものの象徴だと思います。

 こういった著作をさらに刊行し、読者にお届けし続けるためにも、経営は安定させなくてはならないと思います。岩波書店という本を作る側だけではなく、本を読者に届けるところまで含めた協力体制をさらに強めていきたいと思っています。

 少し古い本ですが、バリー・サンダースに『本が死ぬところ暴力が生まれる』(新曜社)という本がありました。日本という社会は中間層が知的に豊かであり、一定の水準を保っていたので、戦後の成長があったのだと思います。いまの日本の状況を見ると、教養が崩壊しはじめて、社会の隅々にいらだちや不満、憎悪が膨らんできているように見えます。日本が経済を含め復活していくためにも、その教養、いわば知の共通基盤といったものをもう一度築き上げなければと思います。そのなかで岩波書店が果たせる役割があると思っています。

岡本 厚 (おかもと・あつし)

岩波書店 代表取締役社長

1954年東京生まれ。77年早稲田大学卒。総合誌『世界』編集長を経て、2013年代表取締役社長に。著・共著に『北朝鮮とどう向きあうか』(かもがわ出版)、『生存権 いまを生きるあなたに』(同成社)など。