被災の全体像を伝え、常に被災者に寄り添う

 マグニチュード9.0という世界最大規模の地震、多くの命を奪った大津波、今も予断を許さない原発事故。東日本を襲った世界でも類を見ないような重層的な大災害を、朝日新聞はどう伝えたのか。取材態勢の全体を指揮するゼネラルマネジャー・東京本社報道局長の杉浦信之に聞いた。

情報が被災地に届かなければ意味がない

――3月11日、報道局のトップとしてまず考え、全体に伝えたことは。

 今回の震災は被害の範囲もその深刻さもあまりに大きく、取材する側にとっても手さぐりでのスタートでした。私たちがまず最初に考えたことは二つで、一つは何が起きているかをできるだけ早く把握すること。もう一つは、情報を最も必要としているのは被災地であり、新聞がそこにいる人々に届かなければ意味がないということです。

 震災では私たちの仙台工場も被害を受けたため、宮城や福島には東京、茨城、弘前などの印刷工場から新聞を輸送しています。本来、報道局は新聞の作り手ですが、今回は避難所をはじめとする被災地の読者を強く意識したので、販売所や輸送経路など送り手の被害や障害に配慮し、締め切り時間などの作業工程を組み直しました。ちなみに被災地の総局とは災害用電話や非常発電装置によって、地震発生直後からかろうじて連絡がとれていましたが、現地は大混乱だったので、東京で情報をまとめて記事を作るケースもありました。

――今回の震災ではブログやSNSなど個人の発信も注目を集めましたが、新聞メディアの役割をどのように意識されましたか。

 被災地の大部分は停電で、携帯電話もほとんど通じませんでした。情報が断片的に伝わり、刻々と事態が変わる中で、私たちが意識したのはパニックを引き起こしてはいけないということです。そのためにも、正確な情報を最速で送り出すことが重要でした。それでも速報性だけでいえば、ネットやテレビが勝ります。新聞がするべきこと、紙の新聞だからできることは、災害の全体像を、見出し、写真、記事を含めたすべてで伝えることだと考えました。

 例えばネットには、何人が亡くなられたといった情報を瞬時に伝える速さがあります。テレビには映像の力があるでしょう。ただ、事態の深刻さを伝えるうえでは、見出しや写真の大きさ、手元に置いて記事が冷静に読めること、情報を深く多面的に伝えられることなど、新聞でしかできないものがあると私は思います。

――平時であれば一面トップ級のニュースが次々舞い込む中で、何を、どういった優先順位で取り上げるかで悩む場面も多かったと思いますが。

 大きな方針として、大震災の事実はもちろんですが、加えて読者に届けようと思ったことが二つありました。一つは、被災地の方々に役立つ情報、物理面だけでなく心の安寧にも寄与できる情報です。数十万人という被災された方々が何を必要としているのかを考え、3月13日朝刊から「支援通信」という欄を設け、ライフラインの復旧状況や避難生活に役立つ健康衛生管理、メンタルケアのための情報などを掲載し続けました。

 ほぼ同時に、被災者の心に寄り添う新聞でありたいと思い、「ニッポンみんなで」というシリーズを始めました。識者の方々の応援の声を届けたり、現地で懸命に生きている人々の姿を取材したりしています。シリーズタイトルを決めるにあたっては、社内から「がんばれという言葉は使わないようにしよう」という声がありました。辛さに堪えている方たちに、「がんばれ」と新聞社がいうのはどこか上から目線ではないかということです。

「支援通信」 「支援通信」
「ニッポンみんなで」 「ニッポンみんなで」

――震災2日後(3月13日)の日曜日に号外を発行したり、震災当日からテレビ面を移動して最終ページを記事面にしたりするなど、紙面編集や発行態勢にも異例な措置がとられました。

2011年3月13日 号外 2011年3月13日 号外

 私たちの役割には大震災をニュースとして伝えると同時に、日本全体がみなさんを支援していますというメッセージを発信する意味合いが大きかったと思います。東京本社版以外は4月1日からテレビ面を最終面に戻しましたが、被災地にも届けられる東京本社版は、災害報道を第一に考えているというメッセージを込めて、発生から1カ月にわたって最終ページを記事面にしました。

 また新聞だからこそできることと考え、これまで亡くなられた方のお名前を掲載させていただいています。犠牲者が1万人、2万人と膨大な数になると、ともするとその数字が抽象化されますが、亡くなられた方や行方不明の方の一人ひとりに人生があります。活字メディアとして、そこはきちんと伝えなくてはいけないと思い、この作業にも相当のスタッフを割いています。

賢く怖がる、そのための情報を多面的に伝える

――原発事故の情報では、政府機関等の発表に対するいらだちや不信が国民から聞かれるようになりました。会見コメントにあいまいな言い回しが多い中で、専門性の高い事柄を分かりやすく伝える難しさを感じましたか。

2011年3月15日付 夕刊 2011年3月15日付 夕刊

 原発に関しての一次的な情報は、どの地域にどんな危険性があるのかが確かに分かりにくく、政府や東京電力の発表で報道が振れた部分もありました。ただ朝日新聞としては科学取材の専門家を中心に原発事故に最大の注力をして、政府がレベル7を発表する前から、独自の判断でレベル6に達しているということを報じています。

 社内にもっとも緊張が走ったのは、福島第1原発3号機で水素爆発があった3月14日で、その時は「最悪の事態に備えを」という編集委員の論文を掲載しました。不都合なニュースであっても、対処すべき事態は伝えなくてはいけない。ただし過度な不安をあおらないように書こうとデスクたちと決めていました。私たちがよく言っていたのは「賢く怖がる」ということです。事実が不安を与える場合もあるかもしれませんが、新聞は見出しに「最悪」と書いたり、一枚の絵で悲惨さや悲しみを伝える優れた写真を載せられたりすると同時に、今現在はどこまでは危なくて、どこまでは安全だということも理性的に書けます。

 また通常は記事の重複は避けるものですが、今回は逆で、一度書いたことでも大切なことは何度でも書き、原子炉の図なども繰り返し載せました。定期購読していただいている方が必ず読めるとは限らない状態でしたし、被災地以外では即売も平常時の4倍近く売れたと聞いています。初めて朝日新聞に接する人にも十分な情報を与えたいと考えました。

――改めて新聞の力についてどのように感じましたか。

 私は4月下旬に仙台周辺と気仙沼を取材してきたのですが、仙台総局には「あの日からの新聞がほしい」という読者からの声がたくさん届いているそうです。ニュースを知るには、いろいろな方法があります。ただ、それを自分の中で消化し、どう位置づけるかという時には、紙に印刷した活字を通してしかできないのではないかと感じました。

 また、危機の時は落ち着かないものですが、そこで冷静に考えるには、やはり紙に印刷したものをじっくり読むということが大事だと思います。何が起こったか。被災者の方々が何を感じ、何を求めているのか。世界の対応がどうなっているかということを含めて、全体像をつかめるのが新聞だと思います。

――今回はアサヒ・コムからも大量の情報が発信され、社会グループや福島総局のツイッターも展開されました。ネットメディアについての意見は。

 こちらの反応も非常に大きいものでした。アサヒ・コムの情報更新は普段とかなり違うハイペースでしたが、朝日新聞社が持つ情報収集力とその正確性、信頼性をとにかく提供しようという思いが強かったと思います。アサヒ・コムは無料のニュースサイトですが、そこに惜しまず情報を流したのも、やはり私たちが被災者と共にある、寄り添っているということの一つのメッセージだったと思います。

 がスタートしたのは震災直後。は、たまたま震災の前日がスタートでした。これらで意識したのは、記者やデスクの肉声で伝えることです。例えば「この地域の水道が復旧しました」とか、「こちらの避難所で新聞を配っています」「こんな支援活動を始めている人がいます」といったことを、地域の視点で発信し続けています。

 マスコミ報道には賛否両論が寄せられるものですが、特に福島のツイッターには、「記者さんたちも被災者なのですから無理しないでください」「あの情報が役立ちました」といった、非常にポジティブな反響が多く寄せられています。それとネットやツイッターのユーザーというのは、情報収集を一行見出しや140文字だけで済ませている人たちばかりではないと感じました。例えば雑誌の記事や新聞の記事を読み比べて、「こっちは正確な記事で、きちんと取材していた」といった感想もいただきます。若い人たちを含め、ネットユーザーのみなさんもしっかり新聞を読みこなされている、ということを実感する機会にもなりました。

杉浦信之(すぎうら・のぶゆき)

朝日新聞社 ゼネラルマネジャー 兼 東京本社報道局長

1981年早稲田大学政治経済学部卒業、朝日新聞社入社。大阪経済部記者を経て、1988年の「AERA」創刊に参加。その後、東京の経済部で主に企業・金融取材に従事。1994年から約3年間、ロンドン特派員として欧州経済を担当。名古屋経済部次長、東京経済部次長を歴任し、2004年に現「アスパラクラブ」を立ち上げるプロジェクトチームのマネジャーに。2006年から編集局に戻り、生活エディター、産業・金融エディターを経て、2009年4月、「朝日新聞GLOBE」編集長に就任。2010年6月からゼネラルマネージャー兼 東京本社報道局長。