村上春樹7年ぶりの長編が200万部を超える大ヒット

 村上春樹の7年ぶりの長編小説『1Q84』が、1、2巻合わせて200万部を突破するベストセラーとなっている。発売前の増刷など、数々の話題とともに社会現象化したその勢いは、当代随一の人気作家の話題作としても異例だ。担当編集である新潮社 出版文芸第一編集部の鈴木力氏と、同社広報宣伝部長の伊藤幸人氏に聞いた。

読者の楽しみを奪わないための「秘密戦略」

新潮社出版文芸第一編集部 鈴木力氏 新潮社出版文芸第一編集部 鈴木力氏

――発売まで作品の内容を明かさない広告戦略が話題になりましたが、出版までの経緯を教えてもらえますか。

 鈴木氏 新潮社での出版が決まったのは、昨年の末あたりでした。いつも春樹さんは小説が書き上がるまで、内容や、いつまでに仕上げるといったことを編集者にまずおっしゃいません。かなりの大作だろうと予想はしていましたが、原稿を渡された時は、これは大きな仕事になると思いましたね。装丁のイメージや、全体を何冊にするかといった具体的なことを詰め始めたのは今年1月からで、並行して広告展開を広報宣伝部と協議しました。
中身を知らせなかったことに関していえば、実は春樹さんの場合、今作に始まったことではありません。ただこれまでは発売と同時に話題を盛り上げるため、出版前に書店の方や書評家の方にゲラ刷りを読んでいただいています。それで刊行前に情報が出てしまい、まっさらな状態で作品に接したかったと読者からお叱(しか)りの声をいただくことがありました。「だったら今回は徹底して、読者の楽しみを奪わないやり方をとろう」と。実際、社内でも出版前に『1Q84』を読んだ人間は、校正者や装丁の制作者など限られた現場スタッフだけです。

――広報宣伝チームとしては、プロモーションは難しくなりますね。

新潮社広報宣伝部長 伊藤幸人氏 新潮社広報宣伝部長 伊藤幸人氏

 伊藤氏 実は私も最後まで中身を教えてもらえず、じれったい思いをしました(笑い)。村上さんには新作を心待ちにしている多くのファンがいますが、より多くの方に関心をもってもらうための広告活動は必要です。そこで内容を明かさないという読者視点の「方針」を、我々の「戦略」として意識することにしました。具体的には、外形的事実だけを伝えるいわゆるティーザー広告による情報発信を、新聞広告と自社サイトだけに絞り展開しました。
広告展開のスタートは2月からで、まずは新聞読書面下の全7段広告スペースに、「村上春樹 最新長編小説 夏期刊行」という情報のみを載せました。次は3月に『1Q84』というタイトルを明かし、4月には「2,000枚」という原稿枚数を伝え、そして発売日5月29日の全5段広告へとつなげています。

――発売前から、社会からの関心には非常に大きなものがありましたが。

 伊藤氏 ひとつは、今年2月のエルサレム賞受賞の話題が大きかったと思っています。村上さんのもつ国際的な存在感への認識が高まったところでの新刊ということで、テレビ取材も異例の多さでした。それと7年前の『海辺のカフカ』出版の時と大きく違うのは、ブログとネット書店の存在です。例えば私たちの働きかけのないところで、アマゾンさんが「事前予約1万部突破」を発表したり、発売前にBOOK1、BOOK2を 各5万部増刷したことがブログで取り上げられたりと、5月29日を迎える前からブームは起こっていたともいえます。


本をちゃんと読む人は新聞も読む

――読者層はどのように分析していますか。

 伊藤氏 一般論として小説の読者は男性と女性の比率が7:3といったところです。売れる本にはその先に王道パターンがあり、発売からすぐにも男女比率が半々になり、女性が6割を超えていきます。今回はまさにそのパターンでした。世代的にも上から下まで広がりがあって、春樹さんのコアな読者とは違う中高生や60代以上の方にも読まれています。

 鈴木氏 これは人に聞いた話ですが、書店で平積みになった『1Q84』を見た二人の女子高生が、「これ話題になってる本だよね」と話していたそうです。それで一人の女の子が「これって『イクワヨ』って読むの?」(笑い)。そういう反響も初めてですよね。

――発売当初、特にBOOK1の完売状態が店頭で続いたことが、読者の飢餓感をあおったといわれていますが。

 鈴木氏 読者や書店さんにご迷惑をかけたのは、純粋に生産能力の問題です。5月末から6月にかけては、営業日はほぼ毎日、5万部、10万部単位の増刷をかけています。それでも予約注文をさばくのが精いっぱいで、売り場に本がなく、レジの後ろの棚に取り置かれた本が人々の目にまぶしいという状態が続いてしまいました。やむなくBOOK2だけが平積みされ、それが関心を引き寄せたということはあるでしょう。でもわざとではないんです。
結果的に生じた飢餓感がセールスに結びついたとすれば、やはりタイトルの強さがあったと思います。ジョージ・オーウェルを知る人、あるいはタイトルが象徴する時代に何らかの思いをもつ人でなくても、これは一体何だろうと思わせる力がありました。

――広告メディアとしては一貫して新聞を重視されましたが、その理由は。

 伊藤氏 ティーザー展開が終わり、発売日以降は、全5段のカラー広告を朝日新聞に3回掲載しています。本をちゃんと読まれている方は、新聞、特に朝日新聞を読まれている方だという読者層の重なりは、これまで変わらない我々の認識です。とはいえ私が記憶している限り、同じ作品で3回の全5段広告というのは、新潮社として初めてのことです。
クリエーティブの基本は、何よりもタイトル、そして著者名を大きく打ち出すこと。そして作品から抜き出したいくつかのキーワードで構成して、読者の読む楽しみをできるだけ奪わない方針は変えていません。
毎回キーカラーを変え、少しずつニュース性のある情報も盛り込むというシリーズ性も意識しました。朝日新聞の読者には書籍の広告を習慣的に読まれている方が多く、こちらの細かな配慮にも気づいてくれることが期待できる点は、ほかのメディアと大きく違います。

2009年5月29日付朝刊 新潮社5/29 朝刊
2009年6月19日付朝刊 新潮社6/19 朝刊
2009年7月3日付朝刊 新潮社7/3 朝刊

――文芸作品が売れないといわれる中で、今も勢いの止まらないヒットをどう受け止めていますか。

 鈴木氏 『1Q84』ではBOOK1とBOOK2の部数をきちんと分けて伝えるようにしているのですが、その差が大きく変わらないのも今回の目立った特徴です。実は出版社としては、約500ページの単行本で1,800円という価格設定はかなりの努力です。それでも読者の方には少なくない出費です。話題になっているからとBOOK1を買われた方も、読み始めたら最後まで読まずにはいられない。そんな小説を読む魅力の原点に、多くの方が改めて気づかれたということではないでしょうか。
さまざまな話題と偶然が重なり、久しぶりの新作への渇望感が大きく醸成されることは、村上春樹作品では過去にも幾度かあったことです。発売12日で50万セット、発売34日でBOOK1が100万部突破といったありえない数字が今回出たことは、やはり作品の力としか思えません。『1Q84』 という小説は、我々が経験したことのないような大きな注目の中で、人々に読まれるべく運命づけられた作品なのだと思います。