10月5日の朝刊、ちょうど中央の紙面全30段にあふれんばかりの活気をもって、光文社とマガジンハウスによる共同広告が掲載された。数々の雑誌の表紙で彩られた街のビジュアル、そして「雑誌とは、時代の景色だと思う。」というコピーには、一般読者のみならず書店や取次会社などのステークホルダーからも大きな反響があったという。今年、ともに70周年を迎えた両社。この広告展開に込めた思いと今後の展望を、光文社社長の丹下伸彦氏、そしてマガジンハウス社長の石﨑孟氏に聞いた。
読者を開拓し、新たな市場をつくり上げてきた2社
――光文社は10月1日、マガジンハウスは10月10日にそれぞれ70周年を迎えました。まず、この節目をどのように捉えていますか。
石﨑社長(以下、石﨑) 率直に言えば、よく耐えてきたなと感じています。出版業界は、私や丹下さんが入社したころから30年、35年ほどは好況でしたが、昨今ではなかなか厳しい状況に置かれています。その中でも、「あそび」を追求するというマガジンハウスの姿勢を、全員の努力で守ってきたというような思いが大きいです。
丹下社長(以下、丹下) 今の状況については、同感ですね。70年の間、当社もやすやすと切り抜けてきたわけではありません。書店の方や取次会社の方、印刷会社、製本会社や作家の先生方などさまざまなステークホルダーの皆さんには、これを機にきっちりお返ししたいという考えがありました。ただ、読者にとって光文社の70周年にどんな意味があるのかというと、あくまで通過点。読者には明日からの刊行物でお返ししていこうと、そんな二つの方向性から、当社なりの打ち出し方を考えていました。
──今回の広告は、同業の2社による共同企画という点で非常に珍しい例となりました。どのような経緯で実現したのでしょうか。
石﨑 1年以上前から70周年の準備をする中で、宣伝担当の役員、また宣伝部長といったそれぞれのレベルで「両社とも70周年、しかも同じ10月だ」と話に上っていました。丹下さんともイベントなどでよく顔を合わせますので、あるとき周年の話になって、何か一緒にやれるんじゃないかと。「光文社とだったらいいじゃない!」と、迷いませんでしたね。
丹下 出版業界に元気がないという報道が多い中ですが、雑誌は元気だと伝えたいという思いも共通していたんです。最終的には石﨑さんのご決断ですね。偶然ですが、競合誌もありませんので、私もぜひにと思いました。
ちなみに、石﨑さんは母校・立教大学の先輩でもあります。業界に入って初めて顔を合わせたとき、先輩は何年経っても先輩だからな、と(笑)。
──そんな接点もあったのですね。両社について、それぞれどのような印象を持っていますか。
石﨑 光文社といえば、やはり中学生のころから親しんだ『カッパ・ブックス』です。当時は書籍の版元なんて意識していませんでしたが、それでも「カッパの光文社」の印象は強かった。マガジンハウスからは、高校3年生のときに『平凡パンチ』が創刊されて、クラスの皆が読んでいました。
それから、これはあまり話していないんですが、実は私が『an・an』編集部に配属されたときのデスクが光文社出身だったんですよ。切れ者でね、非常に厳しかった。
丹下 それは、初めて聞きましたね。
石﨑 私の中では、光文社には何しろ原稿に厳しい人がたくさんいるんだろうと。『平凡パンチ』と同じころに創刊された『女性自身』が、週刊誌の中でも別格とされていたので、週刊誌の基本をつくった会社だという勝手な熱い思いがありました。それが、最終的に今回の企画にも結びついているような気もしますね。
丹下 私にとっても、光文社はカッパです。そしてマガジンハウスは、同じく『平凡パンチ』。『an・an』が創刊されたときは、うちでは到底こういう雑誌はつくれないと思いました。新しいものをつくって市場を広げてきたというのは、まさにマガジンハウスの歴史です。
当社も何か違う柱を立てなければと、数年後に『女性自身』の頭文字を取った新雑誌『JJ』を創刊しました。今回は小型広告のほうで、往復書簡風のコピーも展開しましたが、当社からマガジンハウスへの「あなたと共に歩んだ道のりは、未来への確かな希望です。」という言葉がまさにその通りなんですね。
石﨑 両社とも、自前で市場を、読者を開拓してきた。そういうプライドに関しては、出版社の中でもず抜けて強い2社だと思っています。
書店からも大きな反響、ともに活性化を図る
──今回の二連版広告は、雑誌の表紙で街並みがつくられています。このビジュアルや「雑誌とは、時代の景色だと思う。」とのコピーに、どのような思いを込めていますか。
丹下 創業した70年前、街はまさに終戦直後の焼け野原でした。そこから、雑誌はその時代に生きる人たちへいろいろな提案をして、景色をつくってきた。このビジュアルとコピーは、それが集約された、大変に意味のあるものだと思っています。
当社には元々、「街の風景を変えよう」という考えがあります。たとえば『JJ』は、はやり始めていた“ハマトラ”に注目して「横浜の山手の学校に通うお嬢さん」といったコンセプトで読者にものを問いかけようと考えました。ようやく離陸したら、日本国中がそのファッションになっちゃった。まさに、それが時代の景色になったわけです。
『VERY』でも、最初は30代の主婦層を動かすなんてできるものかと言われましたが、百貨店では2階がヤング、3階以上は中高年の売り場で、「2.5階」はないのかという声を捉えて「私たちの着る服がない」という特集を創刊号で組んだんです。すると、たちまち支持を得て、流通の方には百貨店の品ぞろえを変えたとまで評されました。これも、景色を変えたひとつですね。
石﨑 光文社は『JJ』から『VERY』、さらに上の世代へは『STORY』、『HERS』といった形で読者を「卒業」させながら育てていく。かたや、うちも最初は『an・an』の卒業生へ『クロワッサン』といった形で創刊するものの、編集長の個性によってどんどん変わってしまう(笑)。
アプローチは両極端ですが、どれも家の中で読んで終わりではない、「街へ出よう」と背中を押すような雑誌をつくってきた自負があります。こういった発信をこの2社でできたことにも手応えがありました。
この広告は種類としては企業広告ですが、結果的に企業広告を通り越して「雑誌をもっと盛り上げていこう」というメッセージに着地したのが、非常によかった。これが、各所から大きな評価をいただいた要因だと思います。
──具体的には、どのような声がありましたか?
石﨑 社内でもかなり厳しく内密にしていたほどなので、外部からはまず「見たよ、驚いた」という反響が多かったですね。あまり、企業広告に反響が来るとは私は想定していなかったのですが、たとえば取次会社の方が仕入れの事務所の壁に貼っていると聞いたりね。そんなふうに聞くと、本当にやってよかったと思います。
丹下 私も、掲載後に会った取次会社の方からお礼を言われましたよ。「雑誌を元気にしようというメッセージはとてもいい、ありがとう」と。まさかお礼を言われるとは、こちらが驚きました。
石﨑 今回の広告は、もちろん読者に向けたメッセージでもありますが、望外の喜びは、やはり書店の方に評価していただいたことです。大きなチェーン店だけでなく、小さな街の書店で雑誌1冊が売れていく、その積み重ねも我々にはとても大事です。だから、特に小さな街の書店の方と一緒に、活気づいていけたらという思いがあるんですね。
丹下 まさにその通りで、地方の小規模な書店がなくなるということは、雑誌に確実に影響します。読者には、なんとかして足を運んでもらいたい。そこで周年企画の一環で、11月は光文社の各誌で一斉に京都特集を組み、講演会や書店でのスタンプラリーなどの開催を進めています。今年を機に、来年以降は地域を変えて毎年取り組むつもりです。息の長い企画にしていきたいですね。
人生を楽しめるような雑誌づくりをこれからも
──新聞広告に求めるもの、特に朝日新聞への期待を教えてください。
丹下 やはり、これだけのサイズで読者の手元に届く新聞の迫力は、ほかのメディアにはかえられません。このビジュアルの中には、先ほどお話しした『女性自身』の創刊の号もあるんですが、迫力がある一方で「どこに何がある?」と皆で探すこともできます。また、新聞紙面が40ページほどの構成だからこそ、今回併せて展開した小型広告も効いてくる。もっと分厚い雑誌だったら、目立ちませんから。
石﨑 ほぼ丹下さんが言い尽くしてくれましたが(笑)、どう考えても、こんな展開の仕方は新聞しかない。さらに朝日新聞の影響力の大きさというのは、出版物の広告については一番です。何十年もこの業界にいれば、それは疑う余地がありません。
──70周年に際して、マガジンハウスは「で、次なにしてあそぶ?」、光文社は「めくるページ、めくる未来」とのスローガンをそれぞれ立てています。これについて、また71年目以降の展望を聞かせてください。
石﨑 「あそび」というのは、マガジンハウスの根幹にある大事な要素です。「あそび」のない当社は考えられません。確かに今はメディア環境も大きく変わって、ファッションも遊びも考え方もすべて、雑誌の強烈な影響を受けてきた私や丹下さんのころとは状況も違うと思います。それでも、現役の編集者たちは若い人たちの扉を開けようと必死の思いで制作し、新しい読者をつかんでいます。
若い人を含めて、それぞれにその時代の文化があります。雑誌はその文化をつくってきた存在ですし、マガジンハウスはこれからも「あそび」を提供し続けて、その役目を担っていきます。
丹下 「で、」というのが実にマガジンハウスらしいですよね。当社の「めくるページ、めくる未来」というスローガンは、実は社内公募で選んだんです。私が審査委員長を務めましたが、紙媒体ならではの「めくる」という身体性がとてもいいと、意見が一致しました。同時に、読者には71年目以降をぜひ見てほしいと、その意味で「未来」も大事でした。
今、SNSの発展などを受けて、かつてないほど言葉があふれた時代と言われますが、だからこそ中身が問われています。出版社の強みは、圧倒的な取材力と編集力、それに裏打ちされた記事と刊行物です。両社とも、これには絶対的な自信を持っていますから、今のような紙の雑誌から形は変わるかもしれませんが、確かなコンテンツを生み出せる存在であり続けたいと思います。
石﨑 ちゃんと自分の人生を楽しめて、時代を楽しめる。そういう雑誌をつくっていくのが我々に課せられた期待だと思って、さらに80周年、90周年へと進みたいですね。
光文社 代表取締役社長
1972年入社、広告部に配属。95年広告部部長。2001年、取締役広告部長。 常務取締役、専務取締役を経て、13年代表取締役社長に就任。
マガジンハウス 代表取締役社長
1969年入社。『アンアン』『クロワッサン』『ポパイ』『ブルータス』各編集部に在籍。 87年書籍出版局初代編集長。取締役書籍出版局局長を経て、 2002年12月から現職。(社)日本雑誌協会理事長。