「絆と誇りが、きっと働く原動力」山根 弘行が語る仕事① ―まず営業職に魅了された―

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響いた「仕事の借りは仕事で!」

 高い技術力と専門性を持つ多くのエンジニアを擁して、様々な分野に派遣する企業に勤務しています。私自身は、人財戦略本部と広報ブランディング室という二つのセクションを兼務。社内では圧倒的な数のエンジニアに囲まれていますが、私のキャリアのスタートは広告出稿の営業担当でした。
 小学生の頃はプラモデルやミニ四駆などに夢中で、小遣いもお年玉も全部それに使っていましたから二、三百個は下らないほど持っていたと思います。機械好きではあったので大学は機械工学を専攻しましたが、なりたい職業がはっきりしていたわけではありません。勉強についていくのに必死だったし、クラスメートに比べると明らかに自分の知識や理解度が低いと思い、エンジニアになれる自信はありませんでした。
 学生時代には、ガソリンスタンドのアルバイトでオイルやタイヤを自分で売ったらそれに応じて時給が上がるという体験をしました。セールスを頑張ればそれが報酬として返ってくる営業は面白そうだ、そっちに進んだ方がいいかもしれない。そう思ってリクルートの広告会社へ飛び込んでいったのです。ちょうどフリーペーパー雑誌などの創刊当時で、数え切れないほどの広告を取りにいく仕事はめちゃくちゃ大変、でも刺激がありました。自分が営業して売った広告がそのまま雑誌のページを埋めていくのはうれしく、担当地域のメディアを作っているような達成感があってやりがいは大きかったですね。
 新人が取引のない会社へ飛び込み訪問すると、歓迎されるケースはほとんどありません。なぜ怒鳴られたのか意味が分からない場合も多い。でも粘り強くお客様の求めを理解して、提案を続け結果につなげるのが仕事です。そんな日々でしたが、ある会社で大事なことをやり忘れ、クレームとして強く叱責(しっせき)された後、お客様に「仕事の借りは仕事で返してくれ」と言われたんです。そして次週の案件も任せてくださった。お客様が私を育てようとする愛のムチをいただいたと感じました。

転職で痛感した力不足

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山根氏

 入社から3年ほど続けてしっかり成果も出せていた広告営業は、『タウンワーク』という求人情報誌でした。人の気持ちを動かす知恵を巡らせ、就職が決まれば私たちも利益を得て、働く人の雇用機会にもなっていく。私はこのビジネスモデルに面白さを感じ、いつしか得意な分野になっていました。ある日、得意先の1社が「新しい会社で人材採用の部署を作る。一緒にやらないか」と私を誘ってくださった。任されたのは採用マーケティングの仕事でした。
 前職ではある程度の営業成績も収め、それなりにやれると多少の自信はありました。それで、新しい仕事は甘くないだろうけれど、もう一度ゼロからトライしてみたいと、思い切って転職を決めたのです。しかし入ってみたら通用しなかった。それがまず衝撃でした。なぜか。以前はリクルートのブランド力で商品を売っていたからです。それに比べて人材業は、目に見えづらい心や人柄が商品で、正解がないもの。「人の心」を言葉やクリエーティブなどの仕組みで動かす難しさがあります。私にはそれに対する思考の深さが足りませんでした。

山根 弘行(やまね・ひろゆき)

(株)アウトソーシングテクノロジー 人財戦略本部長/広報ブランディング室長


1981年大阪府生まれ。大阪産業大学(工学部 交通機械工学科)卒業。広告会社に入社後、3年間の営業職を経て2007年に(株)アウトソーシングに入社。15年に(株)アウトソーシングテクノロジーに転籍。