イラストから写真へ 資生堂の広告を転換させた中村さん

 資生堂初の若年層向け口紅をアピールした「キャンディトーン」キャンペーンなど、数々のイラストレーション広告を担当。男性向けの美容商品は成功しないと言われた時代に、ディスプレーからポスターまで幅広くプロデュースし、「MG5」や「BRAVAS」などをヒットさせた、元資生堂制作室長の水野卓史氏。中村誠さんの仕事ぶりを最も間近に見てきた人物でもある。資生堂のクリエーティブの現場の様子や、中村さんの意外な素顔について語ってくれた。

自由に写真表現ができない葛藤を抱えていた

水野卓史氏 水野卓史氏

 私は中村誠さんより7つ年下の後輩です。資生堂に入社したのは1955年。最初は大阪支社に配属され、4年後の59年に東京に異動になりました。資生堂は「商品をして全てを語らしめよ」という福原信三社長の哲学のもと、ヨーロッパのアール・デコやアール・ヌーヴォーに通じる、いわゆる “資生堂調”のイラストレーションが文化として根づいていました。その立役者が、戦前から在籍していた山名文夫さんです。私は山名さんのもとで雑誌広告のイラストを担当することになりました。

 当時、中村さんは中堅デザイナーとしてバリバリ仕事をしていました。ただ、二人でお酒を飲んだ時などに、ふと本音をもらすことがありました。「資生堂にいても刺激がない。自分の思う表現ができない」と。というのも、中村さんは、戦後にどっと日本に入ってきた米国の印刷物に触れ、華やかな写真表現に魅せられ、「これからの時代はイラストでなく写真だ」という思いを早くから持っておられました。「数年後にはテレビの時代が来る」とも言っていました。だからなおさら写真なんだと。日本の印刷技術が上がっていく中で、「グラビア印刷でなく、より美しく刷れるオフセット印刷で写真原稿を量産できないか」ということも印刷会社に相談し始めていました。

 しかし、イラストを中心に据えてきた資生堂ですから、写真を使いたいと言っても受け入れられない。かたや、社外のデザイナーは写真を使って新しいクリエーティブに挑戦している。一方で百貨店では、欧米の化粧品会社がきらびやかなメーキャップ製品を並べて世界規模のキャンペーンを展開している。そうした状況を見て、「このままではいけない」との思いがふつふつとわいていたのでしょう。

転機は「メイクアップトウキョウ」キャンペーン

 私はイラストの担当でしたが、有能なデザイナーやコピーライターたちが広告会社に入って画期的な提案をしているのを見て、中村さんと同じように危機感を持っていました。「女性の顔や花の絵ばかり描いていていいのだろうか。これからは、センスあるコピーライターと組んで戦略的なキャンペーンを展開していく時代なのではないか」と思い、資生堂を退社されたばかりだった土屋耕一さんに声をかけ、一緒に雑誌広告を作るようになりました。分業制がなかった時代なので、資生堂は伝統的にデザインを担当すると、そこに自分のイラストを描きフィニッシュまで仕上げました。コピー以外は一人の作業です。それが資生堂らしさを築いたのだと思います。61年には、資生堂初の若年層向けの口紅キャンペーンのイラストを担当することになり、3年にわたって描きました。そして63年に半年間の海外研修に出ました。

 ここで中村さんが鮮やかな手を打ちます。砂目スクリーンを使って写真の粒子を粗くし、資生堂の文化であるイラストの風合いを残した独自の写真表現で会社に提案したのです。これは、東京オリンピックがあった64年の「メイクアップトウキョウ」キャンペーンで花開きました。その後、中村さんは、カメラマンの横須賀功光さん、デザイナーの村瀬秀明さん、石岡瑛子さん、松永真さんなどと組み、資生堂の広告イメージを、イラストから写真へと大きく変換させました。そして写真を使うとなれば、アーティストが加わり、そこから分業制ができていき、資生堂の広告作りは変わっていきました。

 海外研修から帰った私は、びっくりしました。畳の部屋が、じゅうたん敷きの部屋にすっかり変わってしまったかのようでした。でも、それで良かったと思います。私は、資生堂のイメージの中核はイラストだと信じていますが、「革新」も資生堂の伝統であり、中村さんはそれを成し遂げたのです。

アーティストとして常にテーマを持っていた

 積年の思いを果たすまでに、中村さんは大変な苦労をし、入念な準備をしたと思います。戦後すぐに入社した中村さんは写真表現を持ち込もうと奮闘しました。しかし、上司の賛同はなかなか得られず、土屋さんを筆頭に、世代の近い有能な部下はどんどん辞めていき、孤独だったと思います。頼れる数少ない同志は、印刷技術者ではなかったでしょうか。彼らに敬意を表して「プリンティングディレクター」と呼んだのは中村さんです。「江戸小紋と北斎」や「モナリザ百微笑」など、印刷の可能性を探る実験的な作品も次々発表されました。中村さんが付き合っている印刷会社を調べて、原稿を持ち込む他社もあったと聞きます。

 「たとえ相性が合わなくても、その人の表現するものに資生堂らしい気品や格調が感じられるなら、採用して最大限魅力を引き出す努力をしなきゃならない」とも言っておられました。余人にははかり知れないいろんな経験をしてそうした答えに行き着き、あの「中村誠の世界」ができあがったのだと思います。

 中村さんは、資生堂の仕事をしながらも、アーティストたる原点を見失うことなく、常にテーマを持っていました。組織の中にいるからこそ、金魚鉢の金魚になってはならないという意識が強くあったのではないでしょうか。ですから、日本宣伝美術会(日宣美)や東京アートディレクターズクラブ(ADC)など、社外活動にとても積極的でした。また、朝日広告賞をはじめ、様々な広告賞の審査員を務められ、日本の広告全体のクオリティーを高めんと奔走されていました。中村さんの作品評は鋭く、部下にもいろんな示唆を与えてくれたものです。

厳しさと“資生堂愛”

 中村さんとは、2人で飲むことが多かったですね。その時に話すのは、いつも仕事のこと。最後は必ずケンカになりました。「どっちが資生堂を愛しているか」で張り合うんです(笑)。午前零時を回り、中村さんのお宅に泊めてもらうこともしばしばでした。

 中村さんの素顔をもう少しだけ紹介しましょう。彼は大のタイガースファンでした。私との共通点です。上司の前で「来週は甲子園に出張するので、週の半分はいません」などと平然と言ってのけるほどでした。

 また、好きなポスター制作に集中している時にプロモーションやキャンペーンの依頼の伝票が回ってくると、クシャッと丸めてポイッとやっちゃう。私はどんな仕事もしたいタチなので、その伝票を拾って「私にやらせてください」と言うんです。それを繰り返すうちに、「難しいプロモーションがきたら水野へ」という暗黙の了解ができてしまいました(笑)。

 ただ、私の提案はことごとく否定されました。こちらにしてみれば、練りに練った戦略に基づいた広告表現だという自負があり、否定されても絶対に変えない。ダメ出しはたいてい上層部の総意なので、板挟みとなった中村さんが「ちゃんと言って聞かせます」と上に頭を下げてくださることもありました。それでも私が言うことを聞かないので、酒席に移っても延々とやり合うことになります。そして「議論ではおまえに勝てない」と中村さんがさらに腹を立てる(笑)。でも、根っこのところで信頼し合っていて、「資生堂らしさを忘れない」という思いは一致していました。ケンカするたびにそう感じられたからこそ、私は頑張れたんです。そして、いつも最後は提案を通してくれました。

仕事のハリを与えてくれる存在だった

 毎日のように飲みに誘ってくださったのは、私が中村さんの予想もつかない提案ばかりするので、「何を考えてこういうものを作っているんだろう」と知りたかったんでしょう。私も「この表現を持っていったら、上の人たちはどんな反応をするだろう」と毎回楽しみで、いい意味で強烈なパンチをくらわせたいと思っていました。その一番の対象が中村さんでした。中村さんが会社にいないと、ふっと気が抜けてしまって、つまらなかったですね。厳しかったですが、やんちゃな弟の面倒を見るように大事にしてもらいました。

 また、47歳で資生堂を離れてデザイン事務所を立ち上げてからも、後年顧問として戻った時期も含め、ずっと見守ってくださいました。

 最後にお会いしたのは、2008年に岩手県の萬鉄五郎記念美術館で開かれた「中村誠の世界展POSTERS」の会場です。事前に連絡せずにトークショーにうかがったら大変驚かれ喜んでくださいました。

 この先、中村さんの回顧展などがあったら、ぜひ企画に参加させてもらいたいと思うんです。苦労した時代も含めて人生のウエーブを間近に見てきたので、それを伝えられる気がするんですよね。

水野卓史(みずの・たくし)

水野デザイン事務所 アートディレクター

1933年大阪生まれ。55年多摩美術大学図案科卒。同年資生堂宣伝部入社。79年宣伝部制作室長。80年退社。水野デザイン事務所主宰。86年ピエールファーブルジャポン社顧問。2005年から09年まで資生堂宣伝部デザイン制作室顧問。日本宣伝賞・山名賞(2000年)。東京ADC Hall of Fame(09年)。著書に「資生堂宣伝部日記」文藝春秋企画出版部(08年)。