中村誠さんとほぼ同時期に日宣美(日本宣伝美術会)、ADC(東京アートディレクターズクラブ)、JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)の会員となった永井一正氏。同時代のクリエーターとして中村さんをどのように見ていたのか、話を聞いた。
際立っていた 写真印刷に関する知見の深さ
中村さんは、子供の頃から資生堂の広告や企業誌『花椿』の世界観にあこがれ、中でも山名文夫さんのイラストに心酔されていたと聞きます。そして、東京美術学校(現・東京藝術大学)に在学中から資生堂でアルバイトとして働き、1950年に入社されました。私は中村さんより3つ年下ですが、日宣美やADCの活動を通してたびたびお会いし、デザインについて親しくお話しさせていただきました。梶祐輔さんと一緒に資生堂の作品集の制作を手伝ったこともあります。
私の作風は全く違いますが、中村さんの新作を拝見するたびに刺激を受けました。特に際立っていたのは、写真印刷に関する知見の深さです。資生堂の企業文化として厳然とあったアール・ヌーヴォーやアール・デコ調のイラストレーションのイメージを、印刷技法を駆使して違和感なく写真に移行させた手腕にも感心しました。中村さんが60年代初めに手がけたポスターは、砂目スクリーンを使ったり、ハーフトーンを飛ばしたりと、独自の工夫がうかがえます。
その才能は、カメラマンの横須賀功光さんとの出会いによってさらに開花します。63年、日宣美会員賞に輝いた資生堂の海外向け企業ポスターは、三宅一生さんのコスチュームを着た3人の女性たちが舞う姿をとらえたビジュアルが印象的でした。66年には、デザイナーの石岡瑛子さんと横須賀さんと組み、前田美波里さんをモデルに起用した「ビューティケイク」キャンペーンが大評判となりました。76年、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレの金賞に輝いたネイルアートのポスターは、横須賀さんの写真を大胆にトリミングし、強烈なインパクトを残しました。
社外のデザイナーと積極的に交流し、日本のデザイン界に貢献
中村さんは社外の活動にも熱心でした。例えばADC賞は、会員全員で審査するのが設立以来の伝統ですが、私たちが会員になりたての頃は、箱根などに赴いて審査会を行っていました。若手の会員は、作品の運搬や陳列といった雑用をこなさなければなりません。中村さんもその役を担った一人でした。新しい才能を発掘し、社外の人と日本のデザインの未来について語り合える貴重な機会だと考えておられたのではないでしょうか。
米国をはじめ海外のデザイン界は、グラフィックデザイナーと広告デザイナーの線引きがはっきりしています。日本の場合は、戦後間もなくから両者が混然一体となって活動してきました。グラフィックデザインの分野は、亀倉雄策さん、河野鷹思さん、原弘さん、伊藤憲治さん、早川良雄さんといった大御所から、田中一光さんや私などの若手まで。広告デザインの分野は、電通の新井静一郎さん、朝日新聞出身のデザイナーの祐乗坊宣明さん、ライトパブリシティの向秀雄さんといった方々、さらに中村さんを始めとする企業デザイナーたち。こうした面々が切磋琢磨して腕を競ったのです。
ワルシャワ国際ポスタービエンナーレは、私が第1回の金賞をいただきましたが、亀倉さんや、横尾忠則さん、福田繁雄さんなども受賞しています。このようなグラフィックデザイン的要素の強い賞を中村さんが受賞したこと自体、日本のデザイン界の幅広さを物語っていると思います。
中村さんは、企業内アートディレクターに収まらず、ご自身の表現を模索されました。大学の後輩にあたる福田さんと組んで71年にルーブル美術館の招待展用に作成した「モナリザ百微笑」や、葛飾北斎の「富嶽三十六景」をモチーフとした「江戸小紋と北斎」など、純粋なグラフィックデザインにも挑戦され、印刷会社の技術者たちとがっぷり四つに組んで新たな技法を追求されました。
研究の労を惜しまない 中村さんの創作姿勢を学んでほしい
私たちの世代に共通して言えることは、「他の人がやっていないことをやる」という意識の強さです。今の若いクリエーターは、感性がよくて器用で、完成度の高い作品をまとめるのはとても上手です。一方で、人との摩擦を嫌い、表現をめぐって誰かと討論するようなことはあまりないようです。また、デジタル技術なくしてデザインは成立しない時代となりましたが、うんと下手な表現がなくなった半面、あらゆる表現が平準化し、人の心を打つ傑作が少なくなっています。情報が容易に手に入るため、物事を基本から学び取っていく姿勢も、昔の人に比べると希薄な気がします。
中村さんは写真表現の可能性をとことん追求しました。私は、彼の最大の功績は、写真によって「現代美人画」を完成させたことだと思っています。とりわけ、山口小夜子さんをモデルに起用した一連の広告は秀逸でした。歌麿など浮世絵の美人画は世界的に評価されていますが、それに通じる日本女性ならではの美を、山口さんの切れ長の目、紅を差した唇などで鮮やかに印象づけました。
目指す表現のために研究の労を惜しまず、芸術性とコマーシャルを見事に両立させた中村さん。その制作姿勢に今のクリエーターが学ぶことは多いと思います。
晩年も全く衰えなかった創作への意欲
私と中村さんは、作品を見る目を養い、後進の才能を発掘することの大切さも共有していました。というのも、私たちの世代は、「戦争で何もかも失った状態から日本のデザインを復活させなければならない、そうしなければ日本の復興もない」という使命感を共有していました。そして、山名さんや亀倉さんなど戦前から活躍されていた方々が中心となって日宣美、ADC、JAGDAといった組織を次々と設立し、各賞が新人の登竜門となっていきます。
朝日新聞社は52年に朝日広告賞を始めました。中村さんと同賞の審査委員を一緒に務めた時期もあります。とにかく真面目な方だったので、審査会で話す内容は、デザインにまつわることばかりでした。かといって中村さんが他の審査委員に意見を押し付けるようなことはありませんでした。中村さんの作品に象徴されるように、何につけても主観と客観のバランスが絶妙な方でしたね。デザイナーにとって何より重要なことです。
紳士で真面目な中村さんの意外な一面といえば、熱狂的な阪神タイガースファンだったということくらいでしょうか(笑)。私はタイガースのユニホームのデザインを担当したことがあり、それを聞いた中村さんが誰よりも喜んでくださったのを覚えています。
中村さんは、資生堂を定年退職後もフリーのグラフィックデザイナーとして活躍されました。95年に開催された「写楽生誕200年祭」のポスターや、2001年JAGDAポスター展でグランプリを獲得された富士山をモチーフにした作品など、傑作として今も心に残っています。
子供の頃からあこがれていた資生堂に入り、その伝統を守りつつ新しいブランドイメージを創造し、退職後も顧問として資生堂のクリエーティブに関わり、第一線で独自の創作も続けた中村さん。幸せな生涯だったのではないかと思います。
グラフィックデザイナー / 日本デザインセンター 最高顧問
1929年大阪生まれ。51年東京藝術大学彫刻科中退。60年日本デザインセンター創立に参加。JAGDA特別顧問。亀倉雄策賞、日本宣伝賞山名賞、ADCグランプリ、毎日デザイン賞など多数。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章受章。ワルシャワ、ブルノ、クロアチア、モスクワなどの国際ポスター展で最高賞を受賞。札幌冬季五輪、沖縄海洋博、JA(全国農業協同組合連合会)、アサヒビール、三菱UFJフィナンシャル・グループなどのマーク、CI、ポスターなどを多数手掛ける。著書に『永井一正』(トランスアート)、『つくることば、いきることば』(六耀社)、『永井一正ポスター美術館』(六耀社)など。