岩手県盛岡市出身の中村誠氏は、時代の先端を切り開いたグラフィックデザイナーでありながら、生涯「自分は盛岡人」と話していたという。長年、岩手広告賞・岩手広告美術展の審査員を務め、岩手に足しげく通っていた。長く親交を深めていた岩手デザイナー協会前会長の杉本吉武氏に、同氏の人柄や思い出を聞いた。
37年にわたり岩手の広告賞に尽力 地元を忘れない気配りの紳士
――東京に出るまでの中村さんについて教えてください。
中村さんは1926年、岩手県盛岡市肴町の「中村ゴム店」に生まれました。肴町は当時「盛岡銀座」と呼ばれたハイカラな商店街で、商家に生まれた中村さんは、自然と広告に対して人一倍の関心を抱く環境にあったのでしょう。幼少の頃から、実家近くの「村源薬局」のウインドーに貼られていた資生堂化粧品のポスターに目を奪われ、その美人画に見入っていたそうです。
盛岡商業高校に進学して改めて商業美術に目覚めた頃、太平洋戦争が始まりました。商店街からはほとんどの商品がなくなり、実家は店を畳んだそうです。そんな時、中村さんは「この戦争で短い人生になるかもしれない。出征までの2年間だけでも、好きなデザインを学びたい」と東京美術学校図案科(現東京藝術大学デザイン科)に入学。中村さんにとってデザインとは、人生の夢や希望、生きる意味そのものだったのかもしれません。青春時代の憧れを胸に資生堂に入社し、企業人として一生を捧げた。「誠」という名前の通り、何事にも誠実を貫いた方でした。
――中村さんとの親交はいつからですか?
初めて中村さんの名前を知ったのは、私が盛岡工業高校工芸科(現デザイン科)の学生だった頃です。当時工芸科の学生にとって「デザイナー」というカタカナの職業は憧れの的。中央での活躍著しい中村さんの名声はクラスでも話題になっていたんですよ。65年、私は地元のテレビ局(IBC岩手放送)に入社し、テレビCMや企業イメージポスター、地域振興など各種メディアワークに携わってきました。71年に東北6県のポスターコンペでグランプリを獲得した時、中村さんから審査評を受けたことがきっかけで、公私両面でご教示をいただいてきました。同郷、同じく企業デザイナーとして、気持ちが通じ合う思いでした。
中村さんは岩手広告美術展、広告賞の創設時から37回まで審査員を務め、その年もっとも有望な新人に自らの名前を冠した「中村賞」を贈るなど、郷土の若手デザイナーの育成にも熱心でした。岩手の広告美術界に長年、中央の風を送り込み、制作レベルの向上に果たした役割は計り知れません。
中村さんは「息抜き」と称して、年に5、6回は盛岡に帰ってきていたので、よく食事に行きました。中村さんは常に時代のトレンドを築き上げてきた方でありながら、気難しいところもなく、中央・地方と分け隔てなく人と接する方で、銀座の一流ビジネスマンとしての繊細な気配りは紳士そのものでした。
「資本主義の飾り職人」にプライド 晩年の作品でもグランプリの偉業
――中村さんについてご存じのエピソードなどはありますか。
中村さんの中央での仕事ぶりは皆さんご存じの通りです。エキゾチックな魅力を放つ新人モデル・前田美波里を起用し、日本企業では初のハワイロケで撮ったポスターは海外旅行ブームという社会現象まで巻き起こしたし、妖艶(ようえん)さが匂いたつような山口小夜子のポスターでは、現代の浮世絵とも言うべき日本の美を再認識させてくれました。
面白い話があります。小夜子さんが同じパーティー会場にいても、中村さんが彼女の近くにいることは一切なかったといいます。中村さんいわく「ビーナスである小夜子さんが食事をする姿、いわば『生活感』のようなものを見たくなかった」というんですね。美を厳しく追及した中村さんにとって、大衆が胸に抱く「美への憧憬(しょうけい)」を敏感に感じ、その一歩先をとらえ、それをカタチにするために、常にファインダーを磨いていたんでしょう。かつて日宣美(日本宣伝美術会)では、デザイナーという職業は「資本主義の飾り職人」などと揶揄(やゆ)されていたと言いますが、中村さんは「それでいいと思っている」と納得していました。対象の美しさを抽出し、一切の無駄を排除して結晶する。デザインをもって「よく見せる」ことにかけて、プライドを持っていたんです。
――杉本さんから見た、デザイナー・中村誠とは。
冬季オリンピック盛岡招致ポスターや盛岡市のブランド推進ツールのデザインなど、盛岡の案件に中村さんがアートディレクターとして携わり、コラボレーションする機会も多かったのですが、常にみずみずしい感性の持ち主でした。2000年、中村さんは74歳にしてようやく資生堂の顧問を離れてフリーランスになった。01年には日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)のポスター展でグランプリを取った。偉業ですよ。若い頃で体力も気力も十分な時は、みんないい仕事をします。しかし年を取って、第一線で仕事ができる人は本当にごくまれです。「一業・一社・一生・一広告」を胸に、企業を離れてもなおデザイナーとしての人生を貫いたんでしょう。
最後に一緒に仕事をしたのは、盛岡市制施行120周年のイメージポスター「啄木・賢治」。中村さんの頭の中にあった盛岡のイメージを、写真家の長男・中村成一さんが撮影し、私がデザインを担当しました。雪を頂く岩手山を望む雪景色と星空。それは、常々自分のことを「盛岡人」と言っていた中村さんが「アイデアに詰まったら思い出す」と語っていたふるさとの風景だったのかもしれません。
グラフィックデザイナー
1944年岩手県生まれ。65年IBC岩手放送に入社。勤務作家として県内、中央を問わずテレビCMほか多彩なデザインワークを展開。88年ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ特別賞、89年フランス革命200周年記念人権ポスター展(世界の66人に選出)など国内外で幅広く活躍。前岩手デザイナー協会会長。