意見広告にもジャーナリスティックな視点が必要

 民主党への政権交代など社会が大きく変動する中で、新聞紙上に意見広告がよく登場するようになった。意見広告を起点に議論が活発化することも期待され、特定の団体・個人が主義主張をアピールする場としてこれからも注目が続きそうだ。AC・JAPAN(旧公共広告機構)の設立から今日まで広告活動に長く携わり、米国を中心に海外の公共広告に詳しい関西大学名誉教授の植條則夫氏に、公共広告と意見広告の違い、米同時多発テロの際に展開された意見広告の事例などについて話を聞いた。

公共性があれば企業PRも「意見広告」になりうる

――意見広告をよく目にするようになりましたが、多くの読者にとっては、あまりなじみのないものだとも思います。そもそも、意見広告とは何なのか、というあたりから教えてください。

関西大学名誉教授 植條則夫氏 関西大学名誉教授 植條則夫氏

 公共広告と比較すると分かりやすいでしょう。狭義の公共広告とは、公共活動をしている団体、政府、地方自治体などが発信する、公共性の高いテーマについての広告と定義できます。ですから営利目的ではなく、また、いかなる党派、宗派、企業にも偏向しないことが求められる。これに対して意見広告は、少なくとも表面上は営利目的ではない点は同じですが、明確な政治的、社会的な意見の表明、アピールであり、広告主が企業であってもかまわない。詳細な定義はともかく、一般的には、こういう理解でよいでしょう。

 ただ、公共広告も広義に解釈すれば、テーマに公共性があり、広告主の姿勢が極端に表明されていないのであれば、どのような広告主かは問う必要はないといえます。そうなると、企業広告でも公共性があるテーマであれば、公共広告、意見広告と見ていいものもあります。実際、この三者がオーバーラップする広告も多いですね。たとえば、かつてパナソニック(当時は松下電器産業)は、サラエボ五輪で優勝したフィギュアスケートのカタリナ・ヴィット選手を起用し、彼女の反戦・平和への思いをテーマにテレビCMを制作しました。ちょうど、旧ユーゴスラビア紛争で、サラエボの街が破壊されていた時期です。これなどは企業の直接的な主張そのものではなくとも、単なる商品広告や企業広告を超えた、公共広告、意見広告の範疇(はんちゅう)とも重なる秀作だと思います。


示唆に富む9・11後の米国の意見広告

――海外、とりわけ米国は意見広告が多いそうですね。特に9・11(米同時多発テロ)後の意見広告の状況を、長らく見てきたそうですが。

 当時、ちょうどニューヨークに住んでいて、部屋からはワールドトレードセンタービルの上部が見えていました。朝食をとりに国連ビル近くの喫茶店に行くと、テレビの前に人が群がっていて、「飛行機が当たったらしい」と……。まあそれはともかく、以後、アメリカのメディアにどのような意見広告が登場するか、私なりに注視していました。そうするとやはり直後から、あからさまではないにせよ、好戦的なムードをあおるようにも思える情報や意見も出てきた。そうした中で広告にも必ずといっていいほど、アメリカの国旗が使われていた。ニューヨーク・タイムズの1ページを星条旗にした広告もあった。切り取って、窓に張ってくださいと。当時、アメリカではナショナリズムの高まりから星条旗は売り切れ続出で、品不足状態だったんですね。また、アメリカの公共広告の発信拠点として政府とともに歩んできたAC(American Advertising Council:アメリカ広告評議会)も、テロ直後、多くの公共的キャンペーンを展開しました。しかし、そのなかには、独自の「自由のためのキャンペーン」もありました。たとえば、「アメリカは自由の国」というCMでは、政情不安などの理由で母国を離れてアメリカに逃れてきた人々を登場させ、「アメリカに来てよかった」などと語らせていました。

 私もさすがにこれは行き過ぎだろうと懸念しましたが、しかし一方で、テロからしばらくすると、バランスをとろうとする動きも現れていました。その象徴的な事例が、これもニューヨーク・タイムズに掲載された全面広告です。「Imagine all the people living life in peace.(想像してみよう、みんなが平和に暮らしていることを)」。あのジョン・レノンの有名な平和の歌「イマジン」の一節だけが書かれている、というものでした。国を挙げての興奮状態の中で、もっと冷静に考えようというメッセージです。広告主名は紙面には出ていませんでしたが、オノ・ヨーコさんとのことでした。それと、この広告の掲載を決めた新聞社の見識も見事でした。米同時多発テロ後の、アメリカにおける意見広告、公共広告を巡る動きは、日本での状況を考える場合にも、忘れてはならないケースだと思いますね。


メディアとしての信用度の高さに意味がある

――その日本の意見広告に関しては、どのように考えますか。

 かつて、アメリカの著名なジャーナリストであるジョセフ・ピュリツァーは、ジャーナリストを「船のへさきに立って、迷っていないか指示する役割」にたとえました。私は、メディアには前だけでなく船の後ろや海底にも目をやって、ちゃんとした航路を走っているのかを確かめる役割もあるのでは、と思っています。広告にも、そうしたジャーナリスティックな視点がもっとあっていいと考えています。日本の意見広告を見てみると、企業や団体であろうと政府であろうと、一方的な上からの押し付け目線を感じるものが多いようです。また、新聞に載る意見広告は力みすぎて、文字ばかり詰め込むものが目立ちます。クリエーターにとっても、意見広告の制作経験がまだまだ少ないのでしょう。米国の事例のように、感性に訴えかけるようなクリエーティビティーが必要だと思います。若い人や主婦に、読んでみたいと思わせるような意見広告を見てみたいですね。

――意見広告と新聞の関係について、今後どのような展開が考えられますか。

 今は、インターネット上でも様々な意見を表明することは可能です。ただ、最も重要なのは、新聞紙上での意見広告だと思います。テレビCMは短すぎて意見広告には不向きですし、ネットは信用度の点で疑問です。やはり、意見広告においては、新聞の持つ信頼性が大きな意味を持つはずです。最近、意見広告が増えていますが、それは新聞メディアが見直されつつある、ということではないでしょうか。

 新聞も、意識改革が必要でしょう。先に述べたニューヨーク・タイムズの「イマジン」は、新聞社も同じスタンスだったのではないかと想像できます。一方で、反対意見もきちんと載せている。意見広告に同調する必要はありませんが、その意見に対して、当の新聞の意見はどうなのか。それをはっきりさせることも必要になってくるでしょうね。

植條 則夫(うえじょう・のりお)

関西大学名誉教授

1934年大阪生まれ。和歌山大学経済学専攻科、同大学院経済学研究科修了。ほかに関西大学文学部、法学部、経済学部、現大阪府立大学人間社会学部を各卒業。電通のコピーライター、CDを経て、関西大学社会学部教授、現名誉教授、博士(社会学)。公共広告、意見広告研究の先駆者であり、AC・JAPAN(旧公共広告機構)の現諮問委員会副委員長、運営委員長。日本広告学会前副会長。アメリカ広告アカデミー、ニューヨークADC会員。主な著訳書は『公共広告の研究』(日本経済新聞社)、『公共広告は社会を変える』(電通)など40冊に及ぶ。日本広告学会賞(4回)をはじめ、内外広告賞の受賞や審査委員歴も多い。