メディアが多様化し、個人が発信手段を手にしたといわれる今日、従来的な意見広告の存在感が高まっている背景には何があるのか。社会の変化とメディアの関係などを研究する法政大学社会学部の石坂悦男教授に、民主主義におけるメディアの役割や意見広告の意義を聞いた。
失われた「真っ当な少数意見」を述べる場
――近年のメディアと社会のかかわりについて、どのように感じていますか。
まず1点目は、小選挙区制、二大政党制の下での今日の政治が、制度的に少数派の意見を反映させにくくなっているということです。選挙報道などを見ていますとメディアもそれに同調し、○か×かの二元的な議論になり少数意見をとりあげる機会が少なくなっていることを危惧(きぐ)しています。
アメリカでは2000年の大統領選の時、「ラルフ・ネーダー(1960年代に消費者運動を先導した弁護士)が立候補しなければ、ブッシュではなくゴアが当選しただろう」という世論がありました。しかしネーダー陣営にしてみれば、共和党も民主党も自分たちの利益を代表していないという思いがあるわけです。似た構図は昨年の衆院選でも見られ、自民、民主の公認候補でない者は泡沫(ほうまつ)候補として扱われて、発言の平等な機会は実質的には与えられませんでした。国会審議も結局は多数決で、セレモニー化した代議制民主主義をただす役割をメディアが十分果たしているとはいえません。
2点目は、意見を自由に発表する場が失われつつあるということです。道路交通法や騒音規制などが厳しく適用され、集会やデモ、チラシの配布などが行える自由が狭められています。加えて今の若い世代は、ビラまき禁止と言われても自由が制限されているという意識が薄く、「少々不自由でも、安心安全な社会のほうがいい」「自分たちの気分を害するものは排除したい」といった空気が社会全体に見られます。近年、意見広告が増えている背景には、そのような政治制度や個人の変化の中で「真っ当な少数意見」を述べる場やそれを聞く耳が脆弱(ぜいじゃく)化したことが関係しているのではないでしょうか。
――発言の場がなくなっているという話でしたが、今はネットやブログ、ツイッターなど個人の発信ツールは増えています。また、NPOなどに属し、職場や家庭とは別の自己実現を実践している人も増えています。
少なくとも今の段階では、インターネットは信頼性や信用性という面で成熟しておらず、意見広告にある程度必要なメディアの社会的地位が不足しています。ブログやツイッターは個人の発信の場としては可能性がありますが、表現が断片的で、主体や参加者の匿名性ゆえに万人に口当たりのよい意見から少しでも逸脱すると議論が中傷に流れがちです。質的な議論を展開させたり、問題の背景を含めた総論的なメッセージを伝えたりするという目的には従来のメディアの方が適していると思います。
個人の社会参加に関しても、NPOのような市民運動体は確かに広がっていますが、問題は多くの場合、その活動を知っているのが当事者たちだけだということです。薬害訴訟や原爆被害者の運動などを見ていて感じるのは、政治は当事者たちの熱意だけでなく、それに共感する第三者的な人々の広がりがあって動くという現実です。また、代議制民主主義ではすくい上げられない民意を直接政治に訴えかける方法として、最近は住民投票が各地で行われています。法的な拘束力はないとしても、住民の声がメディアで取り上げられ社会的に広がれば、政治も無視できなくなるという狙いがあると思います。
意見広告は自分の主張をありのまま伝えられる
――意見広告を新聞に掲載する例は以前からありましたが、近年特に増えているのはなぜだと思いますか。
意見広告を新聞に出す利点は、読者の時間の都合で見てもらえるということと、事実に反する内容や品位を欠いた表現でない限り発言の制約が少ないということです。例えばアメリカのテレビ報道には、「イコールタイムの原則」というものがあり、選挙番組などである政党がライバル党を批判すれば、批判された側は反論する機会が同じ時間だけ与えられるのが基本です。しかし、ゴールデンタイムに放送された批判に対して、いくら同じ長さの時間でも深夜の放送枠で反論の場を与えられても知る人は少なくなります。
一方、新聞はそういった伝達の格差はありません。そして広告料を出せば、原則的には自分たちが持ち込んだ原稿を掲載でき、言葉を尽くして伝えたい場合も、表現に凝って感情に訴えたい場合も自分の主張をそのまま伝えることができます。問題は「お金がかかる」ということですが、今日では集団訴訟的な考え方が浸透し、ネットなどを使うことで運動の賛同者を募りやすくなったなど、財政的な工夫が以前よりもできるようになりました。
――政権交代を「民意が政治を変えた」と受け止める流れの中で、昨今の意見広告には市民が社会に直接伝える言葉を政治も重視するという期待感があるようにも感じます。今後の意見広告の意義をどう考えますか。
この問題はメディアを論じれば済む話ではなく、人々、特に若い世代の根底にある社会的関心のありようの変化を見ることが必要です。例えば近ごろの若者は新聞を読まなくなったといわれますが、そもそもどういった問題に関心があるのかが昔とは違うんですね。
彼らは流行の事象には敏感ですが、社会や経済のニュースには関心がそれほどありません。極論をいえば将来に夢が持てないのに、この先世の中がどうなるかなんて興味ないし、知ったとしてもどうなるものでもない。ケータイで見るワンフレーズ程度の情報が分かっていればいいと思っているわけです。思考のプロセスより結果だけを見るマークシート答案的な価値観に対してメディアが立ち向かってこそ、そこに掲載される意見広告も注目度が高くなり、力を持てるのではないでしょうか。またそういう現実の中で、それでも自分の考えを社会に述べたいと思う人に対して、メディアは可能性を開く場であってほしいと思います。
――新聞がより市民社会に開かれたものになるために提言はありますか。
自由な主張を広告として載せる場を与えるだけでなく、自らも取材力を生かした記事を通じて積極的に自分の主張を発言してほしいですし、いわゆる識者の意見を載せる場合は多様な人選をしてほしいと思います。テレビや新聞を見ていると、登場するコメンテーターはいつも同じような顔ぶれです。「この人なら何を言うか想定でき、一定の枠をはみ出さないだろう」ということで起用されているのだと思いますが、そうしたことを続けていれば読者や視聴者の心は離れてしまうでしょう。
それと、日本では比較広告に厳しい制限がありますが、消費者の立場からすれば公正な見地に立った比較広告はメリットもあるし、意見広告の説得力や客観性を高めることができるのではないかと思います。最近は企業の広告も意見広告的な社会へのメッセージを含むものが多くなっていますが、環境面や社会倫理面などで他社製品との違いが明確に分かるような広告のあり方を研究してほしいと思います。
米同時多発テロ以来、世の中が萎縮(いしゅく)して思ったことをはっきりと言わない風潮が進んでいます。メディアが不当な規制に対して何も主張をしなければ、やがてはメディア自身の自由も狭まっていくでしょう。日本の戦後民主主義は、日本国憲法と日米安保という矛盾をはらんだ二つの柱の下に歩んできましたが、今日いよいよその整合性がとれなくなっています。社会が大きな転機に立たされている中で、国民の意見を集約する過程に多様性をもたせるために、メディアが負うべき役割は大きいと思います。
法政大学大学院社会学研究科教授/社会学部教授
1942年生まれ。東京大学文学部卒、同大学院社会学研究科博士課程中退。現在、法政大学大学院社会学研究科および社会学部教授、法政大学現代法研究所研究員、日本地域学会、 RSAI(国際地域学会)、日本マス・コミュニケーション学会会員、法政大学ラグビー部長。社会学部で講義科目「情報と民主主義」「マス・コミュニケーション論」などを担当。UCバークレー(スクール・オブ・ジャーナリズム)客員研究員、MSUミシガン州立大学社会公共政策研究所客員研究員、法政大学社会学部長、法政大学常務理事、法政大学出版局理事、日本マス・コミュニケーション学会理事、地域公共政策学会理事などを歴任。著書(編著)に『市民的自由とメディアの現在』『メディア・コミュニケーション』(法政大学出版局刊)など。