地球温暖化と並び、環境を保全するための大きな柱と位置付けられているのが「生物多様性」の問題だ。世界的な対策が急がれる一方で、日本ではその問題の本質や深刻さについて認識が甘いように見える。生物多様性の現状や国際的な潮流について、東京大学農学生命科学研究科教授の鷲谷いづみ氏に聞いた。
野生生物の絶滅危惧種が急増
人類の未来にも暗い影を落とす
――「生物多様性」とは何なのでしょうか。また、現状や直面している問題は。
遺伝子、種、生態系のそれぞれの段階で、さまざまな生命が互いにつながりながら豊かに存在することですが、「生き物のにぎわい」と表現されることもあります。
近年、生物の生息環境が悪化し、生態系の破壊が進んだことで、絶滅の恐れのある野生生物が増えています。これは結果的に、同じ地球生態系の一員として共存する私たち人間の未来も失うことにつながります。1992年にブラジルのリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議(通称「地球サミット」)では、「気候変動に関する国際連合枠組条約」とともに、生物の多様性を包括的に保全し、生物資源を持続可能な形で利用することを目的とする「生物多様性条約」が採択されました。現在では、世界190カ国とECが加盟しています。
温暖化に関しては、大気中の温室効果ガスという明瞭(めいりょう)な指標があるため比較的わかりやすく、国際的にも国内でも多くの対策が進められています。しかし、生物多様性は、遺伝子、種、生態系、生態系サービス(人類が生態系から得ている利益)と、扱う範囲が広く、問題も多岐にわたるため、温暖化ほど対策が進んでいないのが現状です。
生物多様性条約の事務局が2006年に発行したリポート「Global Biodiversity Outlook2(GBO2、地球規模生物多様性概況第2版)」や、国連の提唱で01年から05年に実施した地球規模の生態系に関する「Millennium Ecosystem Assessment(ミレニアム生態系評価)」など国際的な分析評価の報告を見ると、状況は急激に悪化しています。また、国際自然保護連合(IUCN)が絶滅危惧(きぐ)種を毎年公表する「レッドリスト」には、哺乳(ほにゅう)類の4分の1、両生類の3分の1がすでにリストアップされています。その原因は、農地の開発や外来種の影響などです。早急に、それも数年のうちに徹底した対策を講じないと、人類の未来も暗いものになってしまうでしょう。生物多様性を取り巻く問題は、それほど深刻で、対策が急がれているのです。
低い認識と遅れる対策
COP10自国開催が起爆剤になるか?
――日本の企業や生活者の意識や取り組みは。
常に国際的な競争にさらされている金融機関などは比較的早くに対応を始め、情報発信もしているようです。しかし全体としては、生物多様性への取り組みを、自社の将来にかかわると位置付けている企業はわずかです。環境保全活動として植樹をする企業も多いようですが、国際的基準から見て本当に意義があるのかというと、疑問符がつく活動もないとはいえません。
ドイツとEUが中心になり、生物多様性が経済に与える影響を分析する「生態系と生物多様性の経済学(TEEB)」という研究を進めており、生存基盤になる自然環境や生態系が損なわれると、経済発展も妨げることを明確な数字で報告しています。今後は、企業の経済活動も、生物多様性や環境保全を考慮した上で適切にデザインし、それを世の中に説明できるようにならないと、企業自体の持続可能性が危ぶまれるでしょう。
日本企業はCO2削減にようやく取り組み始めた段階ですが、世界では政治の場の主要課題のひとつになるなど、動きはずっと先に進んでいます。世界の新しい流れをとらえ、その中に自社を位置づけることが重要です。さらに、国際的に実績のあるNGOや研究者と手を組むことで、世界でも信用が担保された活動ができるようになるのではないかと考えます。
――生活者の意識はどうでしょうか?
さきほども触れましたように、生物多様性の問題は広く難しいため、なかなか理解が進んでいません。しかし、たとえば私たちが日常的に飲んでいるコーヒーも、単一栽培の広大なプランテーションをつくるために自然の林を伐採すれば、生物多様性の著しい減少につながります。
最近は、もともと熱帯雨林にある高い木は残してその下にコーヒーを植える、すべてをコーヒー園にするのではなく自然の林を少しでも残す、といった新たな環境保全手法が広まりつつあります。また、生産地の人たちの生活を考えたプログラムで生物多様性の矛盾が少ないコーヒー栽培を試みているケースもあります。こうしたコーヒーを選ぶことは、熱帯林地域の生物多様性と貧困層の生活にも目配りしながら消費することにつながります。消費者一人ひとりの行為が、地球全体の生物多様性に与える影響はとても大きいものです。賢明な選択ができるようになるためにも、もっと情報が提供されなければ、と感じています。
――来年10月、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が日本で開かれます。
2002年には「多様性の損失速度を2010年までに顕著に減少させる」という目標が決められました。COP10では、この「2010年目標」に対する実績がどうだったかを評価した上で、新たな戦略目標を作ることが課題となっています。研究者やNGOの間ではすでにその議論が盛んになっており、議長国である日本は、その議論をうまくまとめなければなりません。ホスト国として「知らない」では恥ずかしい。もっと日本の皆さんが関心を持つことが重要だと考えます。
日本では、短期的に見て直接的な利害があることばかりに目がいく時代が続いていました。世界の風向きが大きく変わりつつある今、長期的な視点から文化や自然など、より多様なものの価値を知り尊重することが求められてきています。COP10開催が、日本にとって、そのよいきっかけになればと期待しています。
東京大学農学生命科学研究科教授
1950年東京生まれ。1978年、東京大学大学院理学系研究科修了(理学博士)。筑波大学講師、助教授を経て、東京大学教授(大学院農学生命科学研究科)。生態学・保全生態学(植物の生活史の進化、植物と昆虫の生物間相互作用、生物多様性保全および生態系修復のための生態学的研究など)。おもな著書に『消える日本の自然~写真が語る108スポットの現状~』(共著、恒星社厚生閣、2008年)、『コウノトリの贈り物』(地人書館、2007年)、『天と地と人の間で』(岩波書店、2006年)、『自然再生』(中央公論新社、2004年)など。