新規事業の育成とグローバル体制の強化によってさらなる躍進を目指す

 1908年にミシンの修理業から始まり、家庭用ミシン、工業用ミシン、編み機、家電、タイプライター、プリンター、ファクス、複合機、通信カラオケ、ヘッドマウントディスプレー、Web会議……と、さまざまな製品やサービスを開発し、ユーザー目線に立った機能や利便性の追求によって市場を拡大しているブラザー工業。早くからグローバル化に積極的で、現在、売り上げの約8割が海外、2割がアジアを中心とする新興国が占める。代表取締役社長の小池利和さんに、アメリカ赴任中のエピソードや、今後の展望などについて聞いた。

 

小池利和氏 小池利和氏

――81年から23年にわたりアメリカに赴任していました。入社3年目の26歳のときにみずから手を挙げて赴任を希望したそうですね。

 ブラザーは、入社してみたら、とても居心地のいい会社でした。上司と後輩の仲がよく、家族的な雰囲気で、仕事も先輩が丁寧に教えてくれました。ただ、私は、自分が先頭を切って走りたい、つまり、「鶏口となるも、牛後となるなかれ」のタイプです。そもそも採用面接の時に入社動機を尋ねられて、「ここなら社長になれる可能性が高そうだから」と、若気の至りで答えた人間です。ですから、「温かい会社のムードに慣れて、年功序列の階段を上って、部長程度で終わる人生でいいのか」という思いがあって、そうしたときにアメリカ赴任の候補者を募っている話を聞いて、手を挙げました。アメリカに渡って大きな仕事をして、自分の力を試してみたかったんです。

――赴任中、「FAX-600」、通称「399ドルファクス」が大ヒットしました。その背景はどのようなものだったのですか?

 当時のアメリカ市場におけるファクス価格の主流は799ドルでした。競合商品がひしめく中で、いかにブラザーのファクスの存在感を示したらいいのか、主要販売店のバイヤーに相談しました。すると、「オートペーパーカッター付で399ドルにすれば売れる」と言われました。つまり、399ドルファクスの成功理由は簡単で、お客様に接してニーズを把握しているバイヤーの言う通りにしたからなのです。ただ、日本の開発陣は、1円でも原価を下げるために機能の簡素化などに取り組み、並々ならぬ努力をしました。そのおかげで完成した399ドルファクスはアメリカで大ヒットし、情報通信機器を中心とした事業展開に向けての突破口となりました。

――アメリカでは、どのような苦労がありましたか? 思い出深いエピソードを聞かせてください。

 「399ドルファクス」の成功を契機に情報通信機器の売り上げは拡大していきました。その一方で、コールセンターでの対応や製品の修理などが行き届かなくなったり、倉庫や物流インフラの整備が遅れたりと、さまざまな問題点が浮上しました。「399ドルファクス」を投入した92年に現地法人の取締役になった私は、門外漢ながら「インフラ改革をやります」と手を挙げました。そして、IT投資と巨大倉庫の建設が必要だという結論に至りました。本社にかけ合うために渡日する際は、「本社のOKをもらうまでアメリカに帰ってくるな。許可が下りない時は、社長の家に押し掛けて直談判してこい」という現地社長の言葉に送り出されました。言われるまでもなく、私自身「絶対に必要なことだ」と思っていました。日本の役員たちは、「インフラ整備にどれだけ投資するつもりか」と消極的でしたが、「アメリカで売り上げを伸ばすという目標を掲げているじゃないですか。そのために必要な投資なんです」と訴えました。説得は実り、98年、テネシー州にコールセンターを併設した物流拠点、通称「ジュピター」が完成しました。「ジュピター」はその後、ビジネスが順調に伸長したおかげで5割増しの増築を果たしました。

――2000年、現地法人ブラザーインターナショナルコーポレーション (U.S.A) の社長に就任されました。当時はどのような経営状況でしたか?

 就任当時のBIC・USAは赤字に転じていました。中南米の子会社の業績不振も要因の一つでした。特に、政府が「デフォルト宣言」を出したアルゼンチンと、経済危機を抱えインフレ率が高まるブラジルの不振が深刻でした。それでも「撤退」は私の頭にはなく、再建に着手しました。まず、アルゼンチンの販売会社が経済回復の追い風に乗って立ち直りました。これに勇気づけられ、ブラジルへの200万ドルの増資を日本本社にかけ合いましたが、撤退を指示されました。私はブラジル市場のポテンシャルを信じていましたし、「社長になってから間もなく、納得できるほど手を尽くしていない。中南米を立て直すのは自分だ!」という信念があったので、撤退を拒否しました。結局、ブラジルの通貨「レアル」がドルに対して強くなり、200万ドルを使わずに再建に成功しました。その後、アルゼンチン、ブラジルの販社ともに、社長賞を受賞するほどの優良会社となりました。

――ブラザー工業の社長になって、この6月で丸5年が経ちますが、昨年の業績をどのように振り返りますか? また、今後に期待している事業は?

 主力であるプリンターや複合機などの情報通信機器事業は、欧米の売り上げが7割を超えるため、対ユーロ、対ドルともに円高が大きく響き、全体の売上高は2期ぶりの減収、純利益も3期ぶりの減益となりました。ただ、現地通貨ベースで見ていくと、主要新興国は10〜15%の成長を遂げています。情報通信機器事業を始め、工業用ミシンや工作機械の需要が拡大しているためです。工業用ミシンは、今後も中国、インド、バングラデシュ、ベトナムなど、縫製産業がさかんな国々での成長が見込まれます。スマートフォンなどIT関連製品の加工に使う工作機械も、中国を中心に東南アジアで伸びおり、さらなる躍進を目指しています。
欧米市場においては、プリンターや複合機など情報通信機器の販売拡大を変わらず目指しながら、クラウド技術を使った書類管理サービスやウェブ会議システムなど、新規事業の展開に力を入れています。

――ユーロ安が進んでいます。どのように対応していきますか。

 確かに頭の痛い問題ですが、先々起こり得るリスクを予測し、いかに対応していくかを考えるのが経営者の務めですから、現在の状況は想定内です。対応策として考えられるのは、製品の値上げ、為替予約(為替の変動リスクを避けるために、決済の為替レートをあらかじめ一定のレートで押さえること。予約レートよりも為替相場が円安に動けば差損が生じ、円高に動けば差益が生じる)、経費削減、欧州工場の拡張、主にこの4つです。まず、製品の値上げは市場競争力を維持するためにもできるだけ避けなければならないと思っています。
為替予約は、リーマンショック以前に手を打ち、大きな差益を得た実績があります。私が為替予約に注目したのは、社長就任以前で、アメリカ勤務から帰国したばかりの05年のことでした。当時はユーロ高傾向が続いており、財務部に「ユーロが高いうちに為替予約を長めにやりたい。できれば2年くらい」と交渉したところ、「為替投機と勘違いされる。1年で手を打ちましょう」ということになって、06年から長めの為替予約を始めました。最初の1年はさらにユーロ高が進んだため、為替差損が発生しました。でも私は、欧州に出張した際などに、マクドナルドのハンバーガーが1個1,000円もするような異常な物価高であるのを見て、こんな状況がいつまでも続くわけがないと思っていました。案の定、リーマンショック後にユーロは下落し、差益を得ることによって利益を確保でき、急激な変化にも余裕を持って対応することができました。
経費削減は地道に続けています。私のモットーは「率先垂範」ですから、報酬カットもまずは社長からという信念です。

――円高の影響はありながらも、研究開発への投資を進めていますね。

 10年、中国でトップクラスのソフトウエア開発地区である浙江省杭州市に、製品ラインアップの多様化や販売地域の拡大に対応するため、開発会社を設立しました。これはほんの一例で、今後もグループ全体の開発スピードの向上と効率化をはかり、各国の人材が適所で能力を発揮し、革新的な商品やサービスを生むための環境作りに取り組んでいきたいと思います

――愛読書は。

 歴史小説が好きで、特に司馬遼太郎さんの作品はほとんど読んでいます。高校時代に読んだ『国盗り物語』は、主人公の斎藤道三が、油売りから身を起こして美濃一国の主となっていくプロセスを、あこがれを持って読みました。池波正太郎さんも好きな作家で、『真田太平記』はアメリカ赴任中に夢中で読んだ覚えがあります。

小池利和(こいけ としかず)

ブラザー工業 代表取締役社長

1955年愛知県生まれ。79年早稲田大学政治経済学部卒。同年ブラザー工業株式会社入社。82年ブラザーインターナショナルコーポレーション(U.S.A.)に出向し、米国におけるプリンティング事業の拡大に注力。2000年同社取締役社長に就任し、南米販社をはじめとする米州事業再建に成功。05年、23年間の米国勤務から帰国。07年ブラザー工業代表取締役社長に就任。

※朝日新聞に連載している、企業・団体等のリーダーにおすすめの本を聞く広告特集「リーダーたちの本棚」に、小池利和さんが登場しました。(全国版掲載。各本社版で、日付が異なる場合があります)

広告特集「リーダーたちの本棚」Vol.39(2012年6月25日付朝刊 東京本社版)