ロンドン夕刊紙・生き残りを賭けた戦い

 「何だ、これは」
 自宅でテレビをみていて、目を見張った。ロンドンで唯一の老舗(しにせ)有料夕刊紙『イブニング・スタンダード』(以下『ES』)のテレビCMである。「これまでロンドンの皆さんと疎遠になってしまい、すみません」と同紙が謝っている。そして「『読者の声に耳を傾けること』、『ロンドンを祝福すること』、『公正であること』、『読者に驚きをもたらすこと』、『政治的に中立であること』を約束します。」と言葉をつなぐ。
 欧州でも、ここに来てメディアをめぐる動きが活発になってきた。一例がこの『ES』だ。経営危機に直面していた同紙を発行するメディアグループ・DMGTが下した決断は、ロシアの富豪で旧ソ連国家保安委員会(KGB)の元スパイであるアレクサンドル・レベジェフ氏へ売却することだった。同氏は今年1月、75.1%のES株をわずか1ポンドで買収したという。レベジェフ氏はロシアの新聞社ノーバヤ・ガゼータ社も経営している。
 これは、昨今の景気動向、消費者のメディア接触パターンの変化といった経営環境もさることながら、ロンドンで発行されている無料夕刊紙『ロンドンライト』と『ロンドンペーパー』による影響が大きい。『ロンドンライト』はDMGT傘下のアソシエーテド・ニュースペーパーズ社が発行しているが、同社は無料朝刊紙『メトロ』も発行している。『メトロ』の成功にニューズ・インターナショナル社を率いるルパード・マードック氏が目を付け、「ロンドンペーパー」を創刊したのが2006年8月。アソシエーテド・ニュースペーパーズ社も「ロンドンライト」の創刊で防戦する、という状況だ。この「仁義なき戦い」のあおりも受け、2006年に33万部ほどあったESは、昨年12月には28万部台まで落ちた。
 ES売却劇の舞台裏には、DMGT自体の苦しい台所事情もある。部数減、広告収入減のダブルパンチで2008年10月から2009年3月末で前年比31%減収だった。DMGTにとっては、自社の有料夕刊紙が同じく自社が発行する無料夕刊紙により、返り血を浴びる結末を招いたといえる。

 レベジェフ氏はESを買収した後、無料夕刊紙に流れた読者と広告主を取り戻そうと、矢継ぎ早に手を打ち出している。去る5月11日には紙名も新たに「ロンドン・イブニング・スタンダード」として再出発した。同日65万部を無料で市内にて配布、以降3週間にわたり、テレビ・交通広告を中心に広告キャンペーンを展開し、新たな船出を強く印象づけようと腐心している。新たに編集長を迎え、事前にマーケットリサーチを重ねた結果、ロンドンで生活する人々に必要とされる紙面作りを目指そうとしている。紙面の魅力を増すために講じている策は、デザインの大幅な変更、著名作家による大型連載コラム、新たなセクションの創設などだ。
 また、収支改善のために、より柔軟な広告スペースの提案ができるようにも試みている。これまでタブーだった1面での広告掲載にも踏み切った。さらに、広告主の要望に応えるためには自社がもつメディア以外との連携も欠かせないとして、アウトドアメディアを扱うチタン、クリアー・チャンネル、ラジオ局のグローバル・メディア、雑誌社のIPC、タイム・ワーナーとの提携も模索中だ。
 発行部数を回復させる手段にも着手。ロンドン市交通局と提携し、地下鉄のプリペイドカード「オイスターカード」を購入時に見せれば、定価50ペンス(約75円)を半額にするといったプロモーションを始め、ロンドン東部の再開発エリアで、ショップやオフィスが多数立ち並ぶカナリー・ワーフでは、新紙面を知ってもらおうと無料で毎日1万部ほど配布した。
 こうした取り組みに対する業界の評価はどうだろうか。広告業界誌を見る限り、紙面もより身近な内容が増え、試しに読んでみようという読者には歓迎されるのではないか、との好意的な意見が多い。一方、手厳しい意見も耳にした。全国紙『ガーディアン』でメディア動向についてリポートしてきたジャーナリストのレイ・スノッディ氏は、「ESの新紙面はフリーペーパーに対してどう差別化しようとしているのか不明確だ。無料ではなく、50ペンスを払って買う価値のある媒体とは何か。高級夕刊紙として、もっと違うやり方があるはずだ」と述べる。
 編集、広告、販売とやれることは何でもやるといった新経営陣。その実行力に、我々も学ぶ点を見いだせよう。ただ、彼らの賭けが奏功するかどうか、その行方は結局お金を払って同紙を手にしたいという読者の気持ちしだいだ。それは最も基本的で、今、最も難しい課題である気がする。

ロンドンイブニングスタンダードの交通広告