1年間のMITメディアラボ駐在を終えて6月末に帰国した。当初は西海岸も含めてあちらこちらへ行くつもりでいたが、結果的にはほとんどの時間をボストン近郊のケンブリッジで過ごした。メディアラボとMITの各学部、ハーバード大学のライシャワー研究所などで開かれるランチトークや講演会、パネルディスカッションにはそれぞれの大学の研究者だけでなく、学外からも著名なスピーカーが訪れる。これを聞き逃すのはもったいないと2つの大学の間をぐるぐる回っていると、チャールズリバーの向こう側のボストンの町にさえめったに出ないという生活になる。こうした講演会の多くが無料で公開されているので、ケンブリッジはまさに知の交差点ゾーンだった。
チャールズリバー便りの最後は、このケンブリッジ、とりわけMITのあるケンドール・スクエア周辺の様子を点描でお伝えしよう。
アテネ像の見下ろす町
「あのビルの上にある像はなに?」。日本から訪ねてきた知人がビルの屋上を指さして尋ねる。え?像?MITにほど近いチャールズリバーを臨む通りに立つレンガ造りの建物の屋上には、確かに何やら像が載っている。冬の雪や路面凍結で歩道のあちこちに穴が開いているため、春先のボストンでは足元に注意して歩く。久しく上を見上げていなかった自分に気づいた。ヨーロッパの教会ならキリスト像や守護聖人の像が載っていても不思議はないが、この5階だてのビルはどうみても教会じゃない。屋根の上の像は杖のようなものを持っていて、裾まである服を着ている。
カメラの望遠レンズをアップにして見た。アテナ像だ。
ビルの名はアテネウム印刷所ビル(Athenaeum Press Building)。建物正面はレンガ造りだが古代ギリシャの神殿風のデザインで、歴史的建造物となっている。1895年に建てられた当初、Ginn & Co.という出版社がここで教科書や学術出版物の印刷をしていた。ギリシャ神話のアテナは知と学問の神様。今はすでに出版社はなく、専門学校とスポーツクラブの他、多くのベンチャーカンパニーがオフィスを構えている。そういえば、Lotus 1-2-3(表計算ソフト)を開発したロータス・ディベロップメント社はこのあたりでスタートしたと聞いたことがある。アテネウム印刷所ビルに限らずケンブリッジ市内のレンガ造りの古いビルには、MITやハーバードから起業した学生たちのオフィスが散在する。
知の女神アテナの名はMITとも縁が深い。1983年に企業とMITが共同で取り組んだコンピューター環境の開発は「アテナプロジェクト」と呼ばれ、今も学内の基本システムはこの「アテナ」を使っている。昨年夏に到着したときは、まず「アテナシステム」につなぎケルベロス認証でサインオンすることが学内の生活環境立ち上げの第一歩だった。「ケルベロス」とは、これまたギリシャ神話に登場する3つの頭を持つ地獄の門の番犬の名前だ。
ワインよりも地ビール?
「ナード(=Nerd、“おたく”の意)の飲み物はビール」らしい。ボストンのローカルビールに加え、ニューイングランド一帯はクラフト・ビールと呼ばれる小規模の地ビール工場が多い。学生たちと飲みに出ると「まずビール」となる。
ボストンを訪れてビールを飲むなら、まず地元の醸造所で第2代大統領ジョン・アダムズの従兄弟の政治家の名を冠した「サミュエル・アダムズ」と「ハープーン」(捕鯨用のもりの意味。ニューイングランド地方はかつて漁業・捕鯨が盛んだった)が双璧。メディアラボで月末に親睦のために開かれるダンスナイト「99フライデー」でも毎回6、7種類のビールを用意するが、この2銘柄は必ず入っている。
ケンブリッジを訪れる機会があれば、ビール好きは「ミードホール(Mead Hall ※1)」へ。地下鉄のケンドールスクエア駅から歩いて5分ほど。樽(たる)からビールを注ぐタップがずらりと並び、百種類を超すビールの銘柄が印刷されたメニューと壁に掲げられた黒板をぎっしりと埋める。夜ともなれば、近隣のビジネスパーソンに加えMITの学生や研究者、教官でいっぱいになり、とりわけカウンター席の周りは、知り合いと歓談、はたまた議論する人で埋まる。
もう一店が「ケンブリッジ・ブルーイング・カンパニー(Cambridge Brewing Company (※2)」。こちらはMITから15分ほど歩いたショッピングモール(日本よりはるかに小規模だが)の中にある。店内には銀色のタンクが並ぶ名前の通りの醸造所だ。季節によってビールのメニューも変わるが、白ビールやポーターと呼ばれる黒ビールなど個性のあるビールを楽しめる。こちらは屋外席もあり、5月から9月ぐらいまでは外で涼風に吹かれてビールを楽しむのもお勧め。
どちらの店もMITの学生の比率が高い。食べ物は「まあまあ」。日本人にとっては大味な米国の料理だが、帰国した日本人研究者も「食べ物は懐かしくないけど、あのビールは懐かしい」とニューイングランドの味を思う声を聴く。
1年間はあっという間。ビールの泡のうたかたのよう。そして多くの人との出会いや、多くの気づき、情報を与えてくれた密度の濃い時だった。ちょうどグラスのふちにみっちりと盛り上がるきめ細かい泡のように。