今年の梅雨明けは少し先らしいが、街ではもうすっかり夏服。ネクタイ姿は相変わらずだが、企業や官公庁でのクールビズもそれなりに始まっているようだ。6月の最初の閣議では野田首相を始め閣僚らがそろって沖縄の「かりゆしウエア」を着込んでいた。しかし、その意義はともかくとして、似合わなさに大きな違和感を覚えた。おそらく原因は閣僚側にも当のかりゆしウエアの方にも、あるのだと思う。
首相や大臣らがかりゆしウエアを着るのは、沖縄米軍基地問題で沖縄県民にとっては決して十分とはいえない自らの姿勢に基づく配慮の表れに違いない。5月に沖縄の仲井眞弘多県知事から内閣にかりゆしウエアが贈られたことだし、せめて一度は着ないと、との思いがあったのだろう。だが、それを着た姿は、ほとんどがサイズもあまり合っていないし、顔立ちとシャツの色柄のマッチングも適切ではなかった。
違和感の理由はそうした単純な着こなし方によるものだけではない。もっと大きな原因は、着ている閣僚たちが、かりゆしウエアというシャツがどんなシャツなのか、そしてそれを生み出した沖縄が今どんな状態に置かれているのか、ということへの思いや想像力が程度の差こそあれ浅いことにある。だから着てもしっくりこない。ファッションというのは、そうした着る人と着ている服とのギャップをあからさまに示してしまうのだ。
しかし、今回改めて感じたことは、違和感の原因はかりゆしウエアの服としての質にも問題があるということだった。まず指摘すべきなのはデザインの詰めが不十分なこと。襟と身幅のバランスや胸ポケットの位置、全体のシルエットなど、どこもアンバランスで統一感に欠けている。そして色柄についても、沖縄的な図案が十分にこなれていないし、色染めの質感にも欠ける。仕立てにも未熟さを感じざるを得ないのだ。
さらにもっと問題なのは、かりゆしウエアに表現された沖縄のイメージがどこか借り物のように思えることだ。確かに色柄は、沖縄の青い空や海、豊かな植物、赤瓦や石垣などを思わせ、またリラックスした癒し感覚もある。だがこうしたイメージは、沖縄から発信されたというよりも、沖縄の外からの〝沖縄イメージ〟というべきではないだろうか。沖縄にはもっと深い工芸や文化の伝統があって、またさまざまな苦難の歴史や広大な軍事基地という複雑な現実も抱えている。沖縄は夏のリゾートのための南国の別天地というわけではないのだ。
たとえ夏季限定だとしても、閣議で着られるような装いであることからすれば、かりゆしウエアは外から押し付けられた沖縄イメージに安易に迎合するようなものであってはいけないと思う。もともとかりゆしウエアは観光アピールのために沖縄ホテル組合などの主導で作られたことも背景にある。沖縄県衣類縫製工業組合のかりゆしウエア認証の条件は、①県内で縫製され②沖縄観光をPRする柄、だという。
それがいけないというわけではないが、かりゆしウエアが沖縄を代表するような装いだとすれば、沖縄の歴史と現実を踏まえた上での本当の沖縄らしさを表現するものであるべきだ。そのためには、もっと素材を吟味しデザインを練り上げ、細部までこだわった仕立てのものでなければならない。
ネット通販や県内のメーカーのカタログなどを見ると、最近はボタンダウンやスタンドカラー、細身のシルエットといったバラエティーも広がっているようだ。素材も、ハイビスカスや沖縄独自の月桃の茎の繊維を使ったものが出てきている。こうした傾向を今後もっと進めていって、かりゆしウエアを沖縄の自然と生活に即した、日常着としての高いレベルに近付けていくべきだろう。
このように、日常生活や地域に根ざしたものというのは、かりゆしウエアに限らず、これからの物作りを考えていくために求められているのではないだろうか。そのためには、普通の人たちがそれをどう使ってどんな生活を送るのかという当たり前のことを、作り手がもっと素直に謙虚に考えてみることが必要だ。また、それを可能にするのが、よく言われる「消費者と作り手とのコミュニケーション」ということの基本的な意味なのだと思う。
◇上間常正氏は、朝日新聞デジタルのウェブマガジン「&」でもコラムを執筆しています。
1947年東京都生まれ。東京大学文学部社会学科卒業後、朝日新聞社入社。学芸部記者として教育、文化などを取材し、後半はファッション担当として海外コレクションなどを取材。定年退職後は文化女子大学客員教授としてメディア論やファッションの表象文化論などを講義する傍ら、フリーのジャーナリストとしても活動。また一方で、沖縄の伝統染め織を基盤にした「沖縄ファッションプロジェクト」に取り組んでいる。