東日本大震災が起きてから、新聞やテレビのニュースなどで作業服や制服をよく見かけるようになった。被災地の現場で連日の厳しい仕事を続けている自衛隊や消防、警察関係の人たちは当然と見えるのだが、政治家や役人、関係企業の幹部らの作業服姿には一抹の違和感を覚えざるをえない。似合っていないからだ。
その筆頭は、首相や閣僚たちの作業服だろう。どのように調達したのかは知らないが、いかにもとって付けたよう。作業服としての最低限の機能性も感じられず、ひたすら貧相にしか見えない。彼らは多分、被災地での作業などはこれまで一度もしたことがないだろうし、これからもないに違いない。それなのに作業服を着ることが、安手のパフォーマンス以外のいったいどんな意味があるというのだろうか。
最も多くメディアに登場して少しは見慣れてもいいはずの官房長官の作業服姿も、いつまでも板に付いた感じにはなっていない。作業をしていないのだから当たり前なのだが、あの作業服姿は記者会見が現地で開かれているわけでもないことや、そこで語られている技術的な事柄ですらも受け売りの二次情報でしかないことを象徴的に示しているように感じさせる。
こうした感じは、原子力安全・保安院や東京電力の社長や会長ら幹部の作業服・制服姿でも同じだった。特に東電の場合は明らかに一般作業員の制服なのだろうが、いかにも卸したてと分かってしまう折りじわがついていて苦笑させられた。彼らの職務では、制服といえばそれはスーツであるはず。職務上の記者会見なら、作業服ではなくスーツで臨むべきなのではないか? それは政治家や役人でも同じことだ。
作業服や制服というのはとても機能的でシンプルにできている。それを職務で着こなしていれば、どんな職種でも格好よく見えるものなのだ。それがそう見えないのは制服への尊敬や自覚が足りないからだ。それをとって付けたように着ると、その人の無自覚さや偽善、ごまかしがたちまち透けて見える結果にしかならない。石原都知事が再選された後も作業服で初登庁したが、同じような欺瞞(ぎまん)性を感じざるを得なかった。
作業服といえば、放射能への防護服やマスクを付けた警官の姿は、不気味ではあったがとてもカッコよく見えた。何と言っても、決して伊達で着ているわけではないからだ。お偉方たちの作業服姿と比べれば、被災地への慰問に訪れた野球やサッカーなどスポーツ選手のユニホーム姿や大相撲の関取たちの和服姿が、当たり前とはいえとても好感度が高かった。
東北の被災地の人々の困難さはいつになったら和らげられるのか。福島の原発事故はどうなっているのか? 今回の東日本大震災は、時を追うにつれて天災というよりも「人災」という感じが強くなってきた。備えが不十分だったと言わざるを得ないし、事後の対策でも決断力をもった強力なリーダーシップの存在がほとんど感じられないからだ。そうした任務にあたるべき人たちの作業服姿は、そんなことをあからさまに示しているようだ。
一方、現地からの避難者の慰問に訪れた天皇陛下ご夫妻の装いはとても好ましく感じられるものだった。人々を和ませるような落ち着いた茶系の色調や、いつものような堅苦しさがなくて抑制されたリラックス感のあるデザインも適切というほかなく、なるべく多くの人と話すために小走りで動いていた美智子妃殿下の姿も印象的だった。
こんな国難に立ち向かうべき政治家や役人たちは、きちんとスーツを着るべきだし、もし作業服を着るならヘリコプターやバスの中からではなく現地を直接歩いて、そこで発言すべきなのだと思う。被災地の中でも放射能の危険でとりわけ困難に陥っている福島での捜索で、防護服に身を包んで現地で作業を指揮して会見に臨んだ福島県警本部長の姿は一服の清涼剤だった。
◇上間常正氏は、朝日新聞デジタルのウェブマガジン「&」でもコラムを執筆しています。
1947年東京都生まれ。東京大学文学部社会学科卒業後、朝日新聞社入社。学芸部記者として教育、文化などを取材し、後半はファッション担当として海外コレクションなどを取材。定年退職後は文化女子大学客員教授としてメディア論やファッションの表象文化論などを講義する傍ら、フリーのジャーナリストとしても活動。また一方で、沖縄の伝統染め織を基盤にした「沖縄ファッションプロジェクト」に取り組んでいる。