鳩山首相が今週の日曜日(5月23日)に沖縄を訪れ、米軍普天間飛行場の移設先は名護の辺野古周辺の海域にするとの政府の計画案を伝えた。「最低でも県外」と言っていたはずなのに、どうして変わってしまったのか? 10年以上もたなざらしになっていた「現行案」とそれほど変わるとも思えない計画案が現実的といえるのだろうか? そう思わざるを得ないのだが、今回はドン小西氏に習い、首相のファッションチェックをして彼の政治姿勢との関係を考えてみたい。
仲井真・沖縄県知事との会見では、鳩山首相は淡い色調で無地の「かりゆし」シャツを着ていた。着心地はよさそうだし無難な選択ともいえるが、いかにもとってつけたような感じで、柄がないのも自信の無さの表れのように思えた。それと比べると、仲井真知事の「かりゆし」は柄も色もかなり選び抜かれた「格」を感じさせるし、いつも身につけている着こなし感があった。
首相は「かりゆし」をいつも着ていないのだから仕方がない、とも言えるのだろうが、そうではない。めったに訪れない外国なら、その国の伝統衣装に身を包むのも愛嬌(あいきょう)の一つだが、沖縄は遠い異国ではない。「かりゆし」を着るならば、どんなタイプがふさわしいか、ズボンや靴も合わせてどう着こなすのがよいのか、といったような、得られたはずの知識をもとにした配慮があるべきだったろう。それが感じられなければ、「かりゆし」は沖縄の人たちにとっては逆効果にしかならないのだ。
とはいっても、シャツにこめた首相の思いにはそれなりものがあっただろう。問題なのは、それが裏目に出てしまう結果を招いたような彼のファッションセンスの定見の無さなのだ。これが普通のオジさんなら大した支障もない(本当はあるのだが)のだが、一国のトップともなればそういうわけにはいかない。何をどう着るのかは、常にその根拠と理由を問われるのだ。
そういえばつい最近、いくつかの海外メディアが鳩山首相のファッション感覚の悪さを写真付きで紹介していた。特にカジュアルに着たシャツの写真は、色も柄もまるでアンバランスな布のつぎはぎ、おまけにそれをベルト付きのズボンの下にたくし込んでいて、これでは笑われても仕方がないと思わせるものだった。なんでそうなってしまうのか?
鳩山首相のふだんのスーツはダークが基調で、金色のネクタイを別にすればそれほどセンスが悪いとはいえない。それがカジュアルなシャツになるとひどくなるのは、カジュアルを重要視していなくて人任せ、おそらく夫人任せにしているためではないだろうか。あのシャツはどう見ても、社会人としての大人の男性が自分の好みで選んだものとは思えないからだ。
大人のメンズファッションの鉄則は、自らの社会的地位や思想の文脈を踏まえたものであること、といわれている。かつて「VANヂャケット」で戦後のメンズファッションをリードした故・石津謙介氏は評判の愛妻家だったが、「自分の服だけは、女房や女性のいうことを決して聞いちゃいけない」と語っていた。男が会社や社会でどんなことをしていて、どんな役割を担っているか、そこではどんな暗黙のルールがあるのか。それは本人しか知らない、というのがその理由だった。
もしそうした文脈から外れていれば、それは着る人のある種の軽薄さや定見の無さを示してしまうことになる、というのがファッションの怖さでもある。沖縄での鳩山首相の「かりゆし」ファッションは、まさに普天間基地問題に対する定見の欠如と照応していたと言わざるを得ない。
沖縄での基地問題の現状を直視すれば、特に今回の辺野古への代替基地の建設はどんな条件をもっても実現は多分不可能だろう。そうであれば、定見なしで済む問題ではない。アメリカ側の虫のいい思惑やそれに連なるさまざまな利権構造に振り回されて辺野古案を模索する間は、世界で最も危険といわれる普天間基地の問題は解決されないで残ってしまうのだから。
◇上間常正氏は、朝日新聞社の速報ニュースサイト「朝日新聞デジタル」でもコラムを執筆しています。
1947年東京都生まれ。東京大学文学部社会学科卒業後、朝日新聞社入社。学芸部記者として教育、文化などを取材し、後半はファッション担当として海外コレクションなどを取材。定年退職後は文化女子大学客員教授としてメディア論やファッションの表象文化論などを講義する傍ら、フリーのジャーナリストとしても活動。また一方で、沖縄の伝統染め織を基盤にした「沖縄ファッションプロジェクト」に取り組んでいる。