マックイーンの死 20世紀ファッションの世紀末の中で

 ファッションの世界ではここ数年、生み出されたものよりも失われたものの方が大きかった。2月11日に伝えられた、英国の鬼才デザイナー、アレキサンダー・マックイーンの死は、そんな感慨を決定的に深める「事件」だった。彼の存在は、現代ファッションの隆盛とそれがはらむ矛盾を最も端的に象徴するものだった。そして、転換期を迎えたファッションがもしデザインの力で内側から活路を開けるとすれば、彼はその可能性をもった数少ないデザイナーの一人だったと思うからだ。

アレキサンダー・マックイーン アレキサンダー・マックイーン

 1969年、ロンドンの下町の生まれで、父親はタクシーの運転手、6人兄弟の末っ子。スキンヘッドのその容貌(ようぼう)や言動は、サッカーでいえばマンチェスター・ユナイテッドのルーニー選手に似た「才能ある悪ガキ」風だった。事実、マックイーンは相当あぶない少年だったらしい。そのこととスポーツや芸術の才能は別に関係ないのだが、高級ファッションの場合だと話はかなり異なる。

 中学を何とか卒業したマックイーンは、英国伝統の紳士服工房で仕立て職人としての修業を積んだ。そこでファッションの天賦の才能が開花し、イタリアの人気デザイナー、ロメオ・ジリのアトリエで働いた後、ロンドンに戻って芸術系の名門、セント・マーチンズ校でファッションの修士課程まで修めた。そして自らのブランドを立ち上げて作り始めた服は、英国の労働者階級の若者の伝統的な反抗精神を紛れもなく受け継ぐものだった。

 どぎついパンクメークに、股上わずか数センチでヒップが露出したバムスターパンツ。本物のチョウが舞う白いネットの髪飾り……。ショーのタイトルも「ハイランド・レイプ」「ゴールデン・シャワー(放尿の意)」といった刺激的なものだった。しかし服そのものは、熟練の仕立て技術とヨーロッパの正統ファッションの水準を踏まえた完成度の高さを示していた。

 27歳の時、パリで最もエレガントなブランドの一つ、ジバンシィの主任デザイナーに抜擢(ばってき)され、5年間にわたって物議をかもしながらも同時に完ぺきに近い美しさをもつ作品を世に送り出した。だが、自らのブランドをグッチグループの傘下に移し、ジバンシィを辞めるときには「くそったれのパリはもうウンザリ」とのコメントを残した。

 マックイーンとラグジュアリーブランドとのこうした関係は、現代ファッションを特徴づける一つの側面を思い起こさせてくれる。1980年代から急成長した産業としてのファッションは、オートクチュールが象徴する「上流」のイメージを、実態は不確かな「中流」クラスの上昇志向にアピールすることで市場を拡大してきた。しかし、それ自体としては保守的で古臭いものでしかないクチュールに現代的な吸引力を与えるためには、都会のストリートの刺激が必要だった。

 そこで注目されたのが、ビートルズやミニスカート、パンクロックなどを生み出した、英国の下層階級の疎外された若者たちのパワーだった。とりわけパンクは、最も刺激的な構成要素として手を変え品を変えてファッションに取り込まれた。まるで毒薬を薄めて効果的な薬にして使うようなやり方だったが、マックイーンの場合は彼自身がその毒薬そのものだった。

 そんな彼が高級ファッションの枠内でも創造性に富んだ服を発表し続けることができたのは、「上昇志向をもった中流」の顧客というマーケットが成立していたからだ。80年代に喧伝(けんでん)された記号消費論がバブル経済の崩壊などでなにやら空しくなってしまってからも、ラグジュアリーブランドはそれなりアイデアに満ちた商品で中流の最後のはかない上昇志向を刺激し続けることで成長を遂げた。

   しかし、アメリカや日本で急速に進んだ階層分化や08年の金融ショックは、ファッションが顧客として想定していた中流階層が実はもう存在しにくくなっていること、またはもはや単なる幻想であることを明らかにしてしまった。それと呼応して成長の止まったラグジュアリーブランドは、内部に毒を抱え込んで刺激的なクリエーションを作り出す動機とそれを支える体力(経済力)を失いつつあるのかもしれない。

 マックイーンが直面していたのは、そんな風な、もう10年も遅れてやってきた20世紀ファッションの世紀末的状況だった。遺書は見つかっていないという。直前に母親を亡くしたことが引き金の一つになったことは確かだろうが、死を選んだ理由はそう簡単には語り尽くせなかったに違いない。

 理由はどうであれ、現代ファッションがかけがえのない一つの宝を失ってしまったこと、そして生き延びるための大きな力の一つを失ってしまったことは確かだといえるだろう。

舞台にがれきの山を築いて              2010年春夏パリ・コレクションより 舞台にがれきの山を築いて
2010年春夏パリ・コレクションより

◇上間常正氏は、朝日新聞社の速報ニュースサイト「朝日新聞デジタル」でもコラムを執筆しています。

上間常正(うえま・つねまさ)

1947年東京都生まれ。東京大学文学部社会学科卒業後、朝日新聞社入社。学芸部記者として教育、文化などを取材し、後半はファッション担当として海外コレクションなどを取材。定年退職後は文化女子大学客員教授としてメディア論やファッションの表象文化論などを講義する傍ら、フリーのジャーナリストとしても活動。また一方で、沖縄の伝統染め織を基盤にした「沖縄ファッションプロジェクト」に取り組んでいる。