「低価格」が幅を利かすようになって、「文化」のニュアンスも低めになってきたような気がする。ファッションの世界でも、クリエーションとか服のメッセージ性といったことについて語られることが、最近はめっきりと減った。西武有楽町店が今年12月で閉店、とのニュースは、そうしたことの象徴の一つともいえるだろう。
若い女性向けの初の本格的なファッション専門店。そんな位置づけで1984年に開店したこの店は、流行の主な発信拠点の一つだった。当時のセゾングループは、ソニア・リキエルやミッソーニ、ジャンフランコ・フェレといった海外ブランドの日本代理店でもあり、ラルフ・ローレンやアルマーニの日本での展開にも先鞭(せんべん)をつけた。そして、コムデギャルソンやイッセイ・ミヤケなど日本ブランドの紹介にも力を注いでいた。
こうしたファッションの先端ブランドの展開は、堤清二氏が率いたこのグループの文化戦略と「生活提案型マーケティング」に連なるものだった。和服を着た米国の俳優ウディ・アレンが掲げた「おいしい生活」の新聞広告、ポスターや、女優フェイ・ダナウェイが黙々とゆで卵を食べるCMを思い出す。それは、もう画一的な大衆消費よりもモノのイメージ戦略が重視される時代になったことを示していた。
西武有楽町店は、いわば大衆消費社会の「終わりの始まり」を示すモニュメントでもあった、といわれる。セゾングループは生活重視と共に、セゾン美術館などを中心に、現代アートがメーンの本格的な「文化」活動にも熱心だった。マルセル・デュシャンやヨゼフ・ボイスの作品を初めて見ることができたのも、このグループのおかげだった。
1980年代はそんな風に、生活必需品が満ち足りた後に人々が求めるとされる、芸術文化や高級ファッション、グルメ、カルチャースクールなどが花開いた時代だった。クラウンやセドリックではなく、ベンツやBMWなどの輸入高級車が高根の花ではないステータスになった。 だがこうして並べてみると、今となってはよく指摘されることだが、全体としてやはりどこか成金趣味的で浮ついた感じが否めない。実際に、90年代に入ってからのバブル崩壊によって、これらの多くは深刻な打撃を受けた。このうち最も被害の大きかったのは芸術文化だったが、高級ファッションはしぶとくその後も成長を続けた。
デュシャンやボイスの展覧会は確かに魅力的だったが、80年代の芸術文化には、主催者の商業主義的な意図のにおいが漂っていた。そして、それらのほとんどは、ヨーロッパを中心に外から持ってきたもので、豊かになり始めた日本人が内発的に自然と求めるような内容のものではなかった。逆にだからこそ何か新鮮な感じがして、当時は急ごしらえだった「文化マーケティング」の手段としても効果がありそうに見えたのだろう。
その目指したところは、効率第一主義や製品の機能性競争、マーケット至上主義ではなくて、個性や多様化、生活中心の新たな価値創造、といったようなことだった。それが80年代からの新しい消費社会の始まりとみなされた。しかし、そんな言説の多くは、バブル経済の崩壊と一緒に泡のように消えた程度のものだったのではないか。それに、多品種少量生産や選択的消費などが可能になったのは、製造技術の進歩や流通・販売の技術革新によって支えられた部分が大きかった。
そう考えると、80年代は大衆消費社会が決して本格的に変わったわけではなかった、ともいえるだろう。それならば、西武有楽町店が象徴した「終わりの始まり」は、何か決定的に新しいことの始まりとはいえず、むしろ大衆消費社会の余命に寄り添う、よくできたターミナルケアのようなものだったのかもしれない。
高級ファッションのブランドは急成長して自立する力を強め、西武に頼る必要がなくなった。西武有楽町店の去年の売り上げは、ピーク時の約半分にまで落ち込んだが、しかしその各高級ブランドもついに去年は大幅な売り上げ低下に陥った。効率重視の大衆消費社会は、今度こそ本当の臨終を迎えているに違いない。だから、この店の閉店は、「終わりの始まり」が終わることを象徴しているように思えるのだ……。
◇上間常正氏は、朝日新聞社の速報ニュースサイト「朝日新聞デジタル」でもコラムを執筆しています。
1947年東京都生まれ。東京大学文学部社会学科卒業後、朝日新聞社入社。学芸部記者として教育、文化などを取材し、後半はファッション担当として海外コレクションなどを取材。定年退職後は文化女子大学客員教授としてメディア論やファッションの表象文化論などを講義する傍ら、フリーのジャーナリストとしても活動。また一方で、沖縄の伝統染め織を基盤にした「沖縄ファッションプロジェクト」に取り組んでいる。