「感覚マーケティング」

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色、形、味、音、匂い、手触りなど、消費者の感覚に影響を与える刺激と彼らの知覚や行動の関係に注目したマーケティング。ハプティクス(触覚技術)などのテクノロジーの進歩に伴い、その研究領域は更に広がると期待される。

 30年以上も前の話だが、匂いの出る映画が上映されるという記事を読んだ。入場時に番号が記されたカードが手渡されて、本編の上映中にスクリーン上部に表示された番号の部分をこすると、そのシーンに合った匂いを嗅げたそうだ。なんて斬新なアイデアだと、当時はいたく感心した。感覚マーケティングの紹介を執筆するにあたって思い出したエピソードである。

 「消費者の感覚に強く影響を与えて、知覚、判断、行動に影響を与えるマーケティング」。『Customer Sense』の著者であるミシガン大学アラドナ・クリシュナ教授は、感覚マーケティングをそう定義する。ハーブの香りは興奮を鎮める、赤色に温かさを感じるなど、個人の属性や文脈、文化によって違いは見られるが、ある特定の刺激が多くの人に共通する反応や行動を誘発することを実証した研究は多い。店内のBGMや照明の明るさを変えたら顧客の滞留時間が長くなった、パッケージの色を変更したらブランドの売上が伸びたという話を聞いたことがある読者も多いだろう。

 ネットでの買い物が日常的になり、実際のお店で買い物をする機会が減少する傾向にある。どのような五感への刺激の組み合わせが人間の買い物行動にポジティブな影響を及ぼすのか。リアルなお店でしか味わえない買い物体験を顧客に提供することに尽力する小売業にとって、感覚マーケティング分野の研究から得られた知見は重要なものである。

 経験価値を提唱したコロンビア大学のバーンズ・シュミット教授は、感覚的な訴求に焦点を当ててSENSE(感覚的経験価値)を作り上げることが、ブランドを差別化する強力なアプローチであると指摘する。しかしながら、五感に対して強力かつ独特の刺激を与えることが常にブランド力を強化するのかと言えばそうでもなく、時として不快感情を呼び起こし、ブランドイメージの低下をもたらすこともある。感覚間の相互作用がどのような感情を喚起し、それがいかなる行動につながるのか。感覚マーケティングの研究課題の一つである。

 テクノロジーの進歩によって、その研究領域は更に広がると思われる。例えばハプティクスとの関連に注目したい。クリシュナ教授は前述の『Customer Sense』の中で、「接触の仮想現実を伝達する技術が進歩するまでにはまだ一定の時間を要する」と述べている。同書の出版は2013年だが、それから5年が経過した今日ではハプティクスは著しい進歩を遂げている。同書ではコントローラーの振動によって格闘ゲームの打撃を疑似的に体験できるゲーム機を紹介しているが、現在では細かい振動によって更に微妙な感覚を再現できるそうだ。手にずしんと感じる重みや、「ザラザラ」とした感触を疑似的に作り出す技術の開発も進んでいる。微弱な電流で筋肉を刺激して、銃を撃ったような衝撃を体感できるゲームコントローラーも商品化されている。

 手術ロボットの遠隔操作を実現する中核技術の一つでもあるハプティクスが、買い物に使用されることもあり得る。スマートフォンにセンサーデバイスを繋げて、画面に映った商品の質感を確認し、それが気に入ったらクリックして決済する。近い将来、そのような光景が見られるかもしれない。ハプティクスやVR(仮想現実)が日常生活の中で普及していけば、感覚マーケティングの分野において新しい研究領域が開かれるだろう。


【 参考文献 】
  • 『Customer Sense』 Aradhna Krishna(2013)
    邦題『感覚マーケティング』平木いくみ 石川裕明 外川拓 訳(2016)有斐閣
  • 『Experiential Marketing』 Bernd H Schmitt(1999) The Free Press
    邦題『経験価値マーケティング』 嶋村和恵 広瀬盛一 訳(2000)ダイヤモンド社
  • 『日経トレンディ(2017年6月号)人工知能&IoT+上半期ヒット』日経BP社
田口 仁(たぐち・まさし)
田口 仁氏

アサツー ディ・ケイ M&D事業統括本部 R&D局長

メーカー勤務を経て1999年アサツー ディ・ケイ入社。
主に研究開発部門に所属し、ブランディング手法の開発や、統計・機械学習手法を活用したマーケティングデータ解析などを担当。日本広告学会会員。日本消費者行動研究学会会員。2017年より現職。