「電子出版」

 電子出版が熱い…ように見える。新聞記事や雑誌の特集に、大きなポイントで「電子出版」や「電子書籍」の文字が躍るのを目にする機会が増えているし、ネットニュースも毎日のようにその話題でにぎわっている。電子出版を題材にした新書や入門書の類もぐっと増えた。いまや周囲でiPhoneを手にした人は普通に見られるし、タブレット型の端末や専用リーダーを持っている人ももはや珍しくはなくなりつつある。その意味では、受け入れ母体としての端末は確実に定着してきていると言えるだろう。

 だがちょっと待ってほしい。本当に市場は「熱い」のか。
確かに、米国における直近の市場の伸び率は著しい。アメリカ出版社協会(AAP)の推計によると、米国の2009年の電子書籍売上高は、約3億1300万ドルに達し、前年の約2.8倍になった。四半期毎に伸び率がアップしており、2010年に入ってからさらに急激に伸びている。
しかしこれは、まだまだ年間約250億円の市場に過ぎない。2008年の数字だが、日本の総出版市場は、書籍・雑誌の販売額計で2兆177億円あるのだ(全国出版協会の資料による)から、けたが二つ違う。さらに、日本国内の電子出版市場は574億円(2009年、インプレスR&D「電子書籍ビジネス調査報告書2010」 による)。これはこの時点で米国市場の2倍以上である。世界的に見ても、この数字は群を抜いており、実のところ電子出版の市場では日本は世界最大なのだ。

世界の電子出版市場の半分近くは、日本のケータイ向けコミック

 それでは、世界最大と目される、日本の電子出版市場の中身はどんなものか、見ていこう。するとその実態は、「書籍」「出版」という言葉から想像されるものとはやや異質とも思える。ほとんどは、ケータイ向けコミックで占められる。

 NTTソルマーレという会社がある。ケータイ向けコミックでは最大のサイト「コミックシーモア」の運営主体であり、実に3万ものタイトルを品ぞろえする、この業界の雄だ。『北斗の拳』『サラリーマン金太郎』『快感フレーズ』『けいおん!』など、知名度・人気とも高い作品がラインアップされている。そのNTTソルマーレは、2010年には有料コンテンツ累積7億ダウンロード(以下DL)を達成したと発表している。累計5億DLが2009年4月、4億DLが2008年10月、3億DLが同5月に発表されていることから、年間で約2億またはそれ以上の有料DLがあると推計できる。同社は上場していないため、公表はしていないが、1DL当たり40円としても年間80億円以上の売上があるわけだ。1社だけで100億円内外の市場規模があるのに加えて、ケータイ向けコミックにはNTTソルマーレ以外にも「Handyコミック」「ケータイ★まんが王国」などの有力サイトがあり、サイトの総計は数百、累計市場規模は約 428億円とも言われる(2009年、インプレスR&D「電子コミックビジネス調査報告書2010」 による) 。

 つまりこういうことだ。そのプラットホームとなる技術が主にアメリカ発であることにより「黒船」と称され、成長率が高いことから「救世主(または刺客)」とも目される電子出版市場は、実は出版全体からすれば10%に届かないまだまだマイナーな市場であり、そればかりかこの分野において、世界中で最も市場が成熟しているのは実は日本、そしてその大部分はケータイコミックなのである。推計のやり方にもよるが、世界の電子出版市場の半分近くは日本のケータイ向けコミック…という事実をベースにすれば、「黒船」や「救世主」というだけのレッテル張りが、実はとんでもなく的外れなものであることが理解できるだろう。

 では、どうしてこのような「狂想曲」が起こっているのか。一つには、長期低落傾向に悩む出版市場からの、成長エンジンに対する期待を、電子出版が一身に担っているという事情がある。ただし、市場の低落傾向は今に始まったことではない。少なくとも電子出版や電子書籍がその直接的な原因ではない以上、落ち込みをカバーするのにこれら新興市場に過剰に期待するのはお門違いというものだ。
また、フォーマットと業界のプレーヤーがながらく固定されてきた日本の出版市場において、久々にプレーヤーの交代が起こる可能性のあることも、話題に拍車をかけていると言えるかもしれない。「〇〇vs.XX」と言った対立構造で市場を語ろうとする文脈が多いことからも、それがうかがえる。

 いずれにせよ、業界の事情やテクノロジーの動向だけ語っても不十分であることは、上記で述べた市場の数字が証明している。最上流であるコンテンツプロバイダーの視点がしばしば欠けているし、なにより受け手であるユーザー不在では、正しい鳥瞰図(ちょうかんず)は到底描けない。

ケータイ向けコミックの主なユーザーは、20~30代女性

 少し古いデータだが、YOMIURI Onlineの記事によると、NTTソルマーレの主なユーザーは、市場の拡大とともに20~30代女性が中心となり、最もダウンロードが多い時間は午後11時から午前2時。また、前記のインプレスR&Dによると、電子コミックのヘビーユーザーは20代前半女性で、売れ筋はボーイズラブ、ティーンズラブ、映像化作品など、という。ケータイコミックの消費実態として、「若い女性が」「寝る前にベッドの中で」「ちょっとエッチな女性向けコミックを」「他人に見られないで楽しむ」さまが浮かび上がってくる。電通総研が3月に行った「腐女子調査」(全国15~29歳未婚女性)によれば、自分のことを「腐女子」(=男性同士の恋愛を扱った小説やコミックなどを好む女性)だと自覚している若い女性は42%、ケータイコミックを利用したことのある「腐女子」は50%だから、「世界の電子出版市場は腐女子が支えている」といってもあながち間違いではないのだ。

ユーザーの利用シーンに即したマーケティングが重要

 流通網=端末を含むプラットホームで覇権を握った事業者が、電子出版市場を「制する」との議論がある。もちろんその論点は重要だが、ユーザーの実態を無視しては、KindleもiPadも勝者にはなれないということは強調しておきたい。そもそも現時点では、夜ベッドの中で読むためのバックライト、パーソナルな読み方を可能にする小画面と電池の持ち時間、そして(アダルト向けをも含む)多様なコンテンツ……などの要素は、暗い所に弱いKindleや、そもそもコンテンツの規制の大きいiPadでは実現不可能なのだから。逆に言えば、ユーザーの利用シーンに即したマーケティングができているからこそ、日本の電子出版(ケータイコミック)市場は、他に先駆けて離陸できたのだともいえる。新型端末の中で現時点で出荷台数の多いKindleやiPadですら世界中で数百万台のオーダーに過ぎない一方、わが「ガラケー」(ガラパゴスケータイ)は累計1億台を超える。この普及母体としての台数の差が、日本の電子出版市場の実態に少なからず影響しているとの見方もできるだろう。その意味では、実績のある日本のケータイコミックには、まだまだ大きなビジネスチャンスがあると言えるのかもしれない。すでにNTTソルマーレは、世界29カ国へのコミック配信を展開している。

 さらに、iPadとKindleの双方を手にとって見ると、これらは相当に違った端末であることに気づく。少なくとも、カラー画面と動画への対応において、両者のスタンスは明快に分かれる。出版コンテンツにおいて、その特性上、「カラー」や「動画」と親和性が高いのは雑誌メディアであり、現実に書籍とはかなり違った展開が起きている。ストック型コンテンツの書籍と違って、フロー型である雑誌は、言うまでもなく広告媒体でもあり、そもそもビジネスモデルが異なるからだ。ただし、ここにおいても、「ユーザーの受容性」が大きなカギを握ることは想像に難くない。電通が㈱ヤッパと運営するサービス「MAGASTORE」上では、そうしたユーザーのデータを蓄積すると同時に、電子雑誌という形態に最適化した新しいビジネスモデルの可能性も模索されている。

 アナログからデジタルへ、という技術の流れは、おそらく誰にも止められない。そして、紙の媒体・紙ベースのビジネスが無くならないことも、同じく確実であろう。そんな中で、いま問われているのは、実は、電子時代の「出版コンテンツ」をどのように定義するか、そのものなのだ。受け取り側の端末がいわゆるガラケーであれ、スマホであれ、タブレット型の機器であれ、あるいはPCであれ、デジタルが標準になりつつある。その扱える情報量はテキストのみにとどまらないし、もちろんそれに対応した「出版」からはみ出したようなコンテンツも出現してきている。既に制作サイドでは(マンガにおいてすら)、かなり前からデジタルはデファクトになっていることを併せて考えれば、今やデジタル化が最も遅れているのは、編集から流通までを含む途中のプロセスなのであり、それに最適化したビジネスモデルなのである。その構築に、ユーザー視点が欠けていては、まさに「絵にかいた餅」になりかねないのではないだろうか。