「エスノグラフィー」

 エスノグラフィーとは、観察を通じたマーケティング企画立案や商品開発のための手法だという説明をよく聞くようになった。しかし、観察はエスノグラフィーの大きな特徴であるものの、ひとつの重要な側面にすぎない。そこで、エスノグラフィーの全体像を大まかにひもときながら、その有用性について考えを述べてみたい。

フィールドワークを行うマリノフスキー フィールドワークを行うマリノフスキー

 まず、エスノグラフィーの原義について簡単に触れてみよう。エスノグラフィーとは日本語で民族誌学、つまり民族の文化や風習、営為を文章として著すことだ。エスノグラフィーを確立した人物として知られるのが、マリノフスキーという20世紀前半に活躍した人類学者である。彼は南海の孤島に約2年間滞在し、現地の人々と深く交わりながら特有の制度や価値観を理解し、著作をまとめた。

 では、マリノフスキーのどこが新しかったのか。彼以前の人類学者は、もっぱら現地に赴くことなく、外交官や商社マンなどから得た情報を参照しながら、その地の文化や風習を西洋的な価値観から分析していた。マリノフスキーはそこに、自らが長期にわたるフィールドワークなど現地の文化・言語にとけ込みながら実施するアプローチを取り入れ、その後の人類学者の規範となった。そのアプローチ手法は「バイフォーカル」と呼ばれ、「自文化と対象社会の文化の実在との間の関係性を築き上げる唯一の方法は、経験した対照性によってその両者を同時に知ること」(Wagner, 1975)とされる。そして、このバイフォーカルという概念はまた、エスノグラフィーの実務的な活用の成否を分ける。

 我々が日ごろ、頭を悩ます問題のひとつは、技術ロードマップや業界の常識、競合企業の動向など、業務執行上の制約を伴うことで、知らず知らずのうちに視野が狭まり、新たな発想を生み出しづらい状況が出現することだ。業務プロセスのアジャイル化(迅速化)、非連続の市場ニーズ、予期せぬ競合企業の出現などが半ば常態化し、商品開発、マーケティング企画など実務におけるアイデアの要求も、漸進的なものから急進的なものへと変化を遂げている。しかし、急進的なアイデアは、単に従来の技術や戦略の延長線上にはない。そこで、前出のバイフォーカルの考え方が大切になる。従来の視点と新たな視点の対照性を明らかにし、過剰な制約を解放し、視野を広げることで、画期的な着想の可能性が高まる。

 バイフォーカルを導くための方法はさまざまだが、以下でその一端を紹介しよう。それは、我々が「例外的ユーザー(extreme users)」と呼ぶ対象者へのリサーチである。例外的ユーザーとは、課題領域(たとえば、高齢化社会にふさわしい飲食サービスなど)における、当該の課題とユニークな結びつきを持つ人物(たとえば、すべての食事を外食で済ます高齢者など)を指す。例外的ユーザーの行動を広く観察し、彼らのアイデンティティー、価値観を深く聞き出すことで、ある事象に対する観察者の先入観を超えた理解が得られる。このような複層的な理解は、事象間の新たな関連性や、一見矛盾した事象どうしの因果関係の発見を導き、発想の切り口を広げることに貢献する。

 観察・インタビューなどから導いたユニークな事象の発見は、複層的な理解を伴うことで、ラジカルなアイデアの源泉になる。それゆえ、エスノグラフィーを、単なる生活者の「生声」収集手段ととらえず、今日的なイノベーションプロセスの上流に位置づけられる術として理解することが望ましいのではないか。