サントリー「伊右衛門」やリーガルコーポレーションなどの広告・ブランディングを手がけ、クリエイティブディレクターとして活躍する永井一史氏は、近年、企業の事業戦略にも携わり、社会活動のサポートも行っている。永井氏のクリエーティブの原点を聞いた。
かっこいいクリエーターを目指し、壁に当たった新人時代
――クリエーターを志したきっかけは。
父がグラフィックデザイナー(日本デザインセンター 最高顧問の永井一正氏)だという影響は大きいと思います。小さい時から当時父が描いていたような抽象的なパターンを描いたりしていました。それに加えて、私は東京・虎ノ門生まれなのですが、場所柄なのか同じマンションに広告関係の方が何人も住んでいました。そうした方からも影響を受け、小学校に上がる前から、「こんな広告があったらいいな」と、子どもながらに“妄想”して、自動車やウイスキーのポスターを作ったりしていました。また、近所に住んでいたCM演出家の方にコマ割りの紙をもらって、そこにコンテを描いたりもしていました。それが、私の大きな原体験です。
その後、高校まではクリエーティブなことにはほとんど興味がありませんでした。改めて美大を目指そうとデッサンを始めたのは、高校3年生の時です。自分が社会に出たことをイメージした時、普通に企業に就職して仕事をするイメージが全く持てなかった。それよりも、デザインの先に見えるものの方が自分に合っているように思いました。とはいえ、クリエーターを目指したのはとても遅かったと思います。今の学生は美大を目指すために早い人は中学から準備するようですから。
――広告が面白いと思うようになったのはいつ頃ですか。
広告に対して本気になったのは、博報堂に入社してからです。仕事をしながら、徐々にのめりこんでいきました。
入社して配属されたのは「宮崎(晋)チーム」です。そこにはクリエイティブディレクターの大貫卓也さんや、コピーライターの岡田直也さん、谷山雅計さんがいました。とにかく世の中を驚かせてやろうという勢いと熱気にあふれたチームで、毎日が学園祭の前日みたいな雰囲気でした。
入社した当時はサイトウマコトさんや戸田正寿さんなど、個人のクリエーターに注目が集まっていた時代でした。私も、アーティスティックでかっこいいビジュアルをつくって、そこに広告主名を入れるのが広告だと誤解していました。当たり前ですが、現実はそんなに甘くありません。入社後3年ぐらいは何をつくっても評価されませんでした。
当時思い出すのは、仕事によっては打ち合わせでの議論の内容があまりに高度すぎて理解できなかったこと。でも、そういう広告の持つ奥深さがかえって面白くて、その魅力にのめりこんでいきました。
――クリエーターとして転機となったのは。
入社11年目の1996年にADC賞を受賞した「カモネギ」(セガサターンVSとしまえん)というイベント告知のポスターだと思います。当時の宮崎チームは、大貫さんの「プール冷えてます」「史上最低の遊園地。」(としまえん)などの作品がヒットしていて、「面白い広告こそいいんだ」という空気が漂っていました。私もそういうものを作ろうと、カモがネギをしょって飛んでくるものすごくリアルなグラフィックを考えたんです。
その後、もう一つ転機がありました。製靴会社のリーガルコーポレーションの仕事がきっかけで、ブランディングの仕事の面白さに目覚めたのです。同社と約10カ月にわたりワークショップを重ね、今後の事業の方向性や製靴業界の将来などを話し合い、リーガルブランドの再活性化戦略を考えました。この仕事を通して、企業の戦略やプランニングの部分にもクリエーティビティーを生かせる領域があることがわかりました。それもデザイナーだからこそ、よりリアリティーがあって、より精緻(せいち)な戦略を作れるかもしれないという手応えもありました。ブランドの仕事は、もしかしたらポスターやCMのような、目に見えるアウトプットはなく、最後に残るのは「考え方」だけかも知れない。ですが、そこも含めて面白いと思いました。
私にとって、新しい仕事に挑戦することは、初めて手に取った分厚い本を読み込むことに近いんです。新しい知識を得て、あれこれ考えることが楽しい。それと同じ感覚で、思い通りにならないことがあっても、仮にアウトプットにつながらない仕事でも、どれも「面白い」と思えるのです。
デザイナーも経営や戦略について考えられる力が必要に
――アイデアを生み出すために工夫していることはありますか。
若手のクリエーターは、自分の考えられる領域の外にある可能性を知る意味でも、たくさんアイデアを出す訓練を積んでおくといいと思います。
私自身も若い頃はとにかくたくさんアイデアを出して、360度あらゆる方向から考えていました。さすがに今は何を考えなくていいかが分かっているので、そこまですることはありません。でも、コーヒーを飲んでいたら降りてきた……なんていうこともありません(笑)。
アイデアは、仕事の打ち合わせ中に会話の中から生まれたり、机に向かってパソコンで考えを整理している時に生まれることが多いですね。ちなみに私はかなりの早起きで、朝目覚めた瞬間が一番頭が活性化しています。
ブランド戦略などを考える場合は、考え得るすべての情報が自分の頭に入っていないと発想しづらいと思います。その時は、発想の工夫よりも、どれだけ発想の前準備をするかが重要です。
――最近の新聞広告について感じることは。
私は今もサントリーの「伊右衛門」や、資源エネルギー庁の「グリーンパワープロジェクト」など、新聞広告を制作する機会があります。もともと新聞広告が好きで、80年代から新聞社と一緒に、「白紙広告」や「真ん中に大きく穴の開いた別刷り広告」、新聞自体を広告でくるんだ「ラッピング広告」など実験的な試みを行ってきました。その頃は「キャッチコピーとボディーコピーがあって、ビジュアルがある」というような、新聞広告の「話法」というべきセオリーをいかに壊して、新しいことができるかに挑戦していました。
今の新聞広告はもはや「守るべき話法」さえ崩れつつあり、売りに直結させるためのセールスプロモーションに近いものも含めて、何でもありになってきているように思います。
サントリー「伊右衛門」
資源エネルギー庁「グリーンパワープロジェクト」
――最近では、社会的な活動の支援にも携わっています。
昔は広告自体を話題にすることに関心がありましたが、ブランディングの仕事を経験していくうちに、会社自体が元気になったり、社員の皆さんに喜んでいただくことが自分にとってもうれしいことだということに気付きました。もっとダイレクトに人々に喜んでもらえることをやりたいと思うようになったのです。
2007年には、博報堂社内の多様な職種のメンバーを集め、「+design(プラスデザイン)」プロジェクトを立ち上げました。世界中の子どもたちが「清潔で安全な水」を使えるよう、日本ユニセフ協会とともに毎年実施している「TAP PROJECT」も、「+design」プロジェクトの中から生まれたものです。
私の中では、具体的なアウトプットのあるデザインも、ブランディングの仕事も、そして社会貢献的な活動も、すべてがつながっています。すべての商品や企業は、人の役に立ち、人を幸せにするために存在しているからです。企業も商品も、社会的活動も、何らかの形で世の中の役に立っていて、その「役立ち方」の領域と度合いが異なるということだと思います。
――最後に、若手デザイナーやクリエーターへ向けてメッセージをお願いします。
僕はクリエーションの未来をデザインの側から捉えたいと思っています。今やいろんなものに「デザイン」という言葉がつき一般化してきました。今後、デザイン的な考え方はもっと爆発的に民主化し、一人一人の中にデザインの意識が入り込んでいく段階へと進むと思います。
広い意味でのデザイナーが活躍できる領域はどんどん広がっていきます。これからのデザイナーは、今までの領域のデザインを追求しながら、新しいビジネスモデルを考えたり、商品や会社の立ち上げに参画するような機会も増えていくと思います。デザイナーだけど経営や戦略も考える人、逆にビジネスパーソンでもデザイン的な発想ができる人、そういうハイブリッドな人たちが増えてくるでしょう。
それはもちろん大変なこともあると思いますが、デザインやクリエーションの領域が拡大した、とても面白い世界の始まりだと思っています。
HAKUHODO DESIGN代表取締役社長 多摩美術大学教授
アートディレクター/クリエイティブディレクター
1985年多摩美術大学卒業後、博報堂に入社。2003年デザインによるブランディングの専門会社、HAKUHODO DESIGN設立。企業・商品のブランディング、ソーシャル、コミュニケーションデザインなどの領域でデザインの可能性を追求し続けている。07年デザインによる社会的課題の解決に取り組む「+designプロジェクト」を主宰。08から11年まで雑誌『広告』編集長。毎日デザイン賞、クリエイター・オブ・ザ・イヤー、ADC賞グランプリなど国内外受賞歴多数。ADC会員。JAGDA会員。
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