【広告デザイン史を語る 前編】回を重ねるにごとにはっきりしてきた広告賞の個性

 サンフランシスコ平和条約の発効により、日本国民の主権の回復が世界で承認され、英国ではエリザベスⅡ世が即位、「鉄腕アトム」の連載が月刊誌『少年』で始まった1952年──。この年の新聞広告から、朝日広告賞はスタートした。66年度の「広告主の部」のグランプリ受賞者で、92年から97年まで審査委員も務めたグラフィックデザイナーの永井一正氏に、朝日広告賞「広告主参加の部」の歴史を、日本のデザインの歩みとともに振り返っていただいた。

終戦直後、「ラッキーストライク」のデザインに目を奪われた

永井一正氏 永井一正氏

 1945年、日本は広島、長崎に原子爆弾が投下され、8月15日に終戦しました。私は戦時中は大阪に住んでいましたが、米国の爆撃機B29が落とした焼夷(しょうい)弾によって実家は全焼し、火の海の中を命からがら逃げ出した覚えがあります。終戦を迎えても、しばらくはB29が来襲する夢にうなされたものです。戦後は、何もかも失った焼け野原。それでも、やっと平和が訪れた中、「デザイン」というものに気づき始めました。最初に目が行ったのは、米国の占領軍がもたらしたタバコの「ラッキーストライク」のパッケージでした。その頃の私はまだデザイナーを志していたわけではありませんが、強烈な印象を持ちました。占領軍が運んできたものは、携帯食品でさえデザインが施されていました。

 とはいえ日本にもデザインはありました。ドイツで写真を学んだ名取洋之助さんが、河野鷹思さん、亀倉雄策さん、土門拳さんらと一緒に始めた「日本工房」という集団が戦前から活動し、大判の宣伝誌『NIPPON』を創刊。写真のモンタージュなど優れたデザインを世に送り出していました。当時は「アートディレクション」という言葉は使っていませんでしたが、実質的にそういう働きをしていた集団です。

 日本のデザインの歴史をもっとさかのぼると、江戸時代初期に本阿弥光悦が俵屋宗達などと組んで優れた工芸デザインの数々を生み出しました。光悦自身がアートディレクターであり、淋派の創始者として日本の美術やデザインに影響を与え、尾形光琳や酒井抱一に引き継がれます。現代においては、田中一光さんが淋派の思想を組み建て直して日本の新しいデザインを創ったと、海外で大きな評価を受けました。

統制経済が解かれた直後に朝日広告賞が誕生

 戦後に話を戻すと、50年代に入り、デザインへの意識が国内で一気に高まります。というのも、51年に統制経済が解かれ、「物を売る工夫」が必要となったのです。私が紡績会社に入社したのはこの年で、ワイシャツのパッケージデザインや広告制作に携わることになりました。

 この51年に、河野さん、亀倉さんをはじめ、原弘さん、伊藤憲治さん、山名文夫さんなど日本工房で活躍したメンバーよって「日宣美」(日本宣伝美術会)が創設されました。同年、同じく日本工房にいた信田富夫さんらによって「ライトパブリシティ」が設立されています。52年にはADC(東京アートディレクターズクラブ)、そして朝日広告賞が誕生しました。53年には日宣美がグラフィックデザインの公募を開始し、日本橋髙島屋や銀座松坂屋で公募展を催すようになります。田中一光さんと私は同年日宣美の会員になりました。

 同じ頃、電通の吉田秀雄社長が、森永製菓から電通に入った新井静一郎さんに、米国で広告事情をつぶさに見てくるように指示しています。当時の米国広告界は、クリエーティブエージェンシーが台頭していました。60年代初めにフォルクスワーゲンの広告キャンペーンで世界的な注目を集めるDDB(ドイル・デーン・バーンバック)は49年に創設されています。新井さんは、アメリカのクリエーティブエージェンシーで、アートディレクター、コピーライター、デザイナー、カメラマン、イラストレーターがそれぞれの役割を担い、チームで仕事を進めていることを学び、日本の広告界に導入します。このシステムの中で活躍したのが、第1回朝日広告賞を受賞した川崎民昌さん、今泉武治さんといった方々です。

 第1回朝日広告賞の最高賞である「銚子醤油(現・ヒゲタ醤油)」の広告は、川崎さんが企画とコピーを担当されました。半5段の小さな広告ですが、氏原忠夫さんの力強く日本的なイラストレーションが印象的でした。今の準朝日広告賞にあたる「選外一」は、今泉さんが企画とコピーを担当された「丸見屋(現・ミツワ石鹸)」の広告です。松下電器(現・パナソニック)のラジオや洗濯機の広告なども入賞しています。入賞作品のほとんどがイラストレーションによる広告で、写真を素材に使うと新鮮に映った時代です。ようやく物資が出回ってきた頃ですから、ブランド広告のようなものはなく、商品の特徴を明快に伝えることが目的の広告が大半でした。いずれにしても、アートディレクターとコピーライターが組んで一つの広告を作るというスタイルが確立したのがこの頃で、川崎さんや今泉さんはその草分けといえます。

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1952年度(第1回)受賞作品から

1952年度 グランプリ 銚子醬油(現・ヒゲタ醤油)

グランプリ
銚子醬油(現・ヒゲタ醤油)

1952年度 選外一 丸見屋(現・ミツワ石鹸)

選外一
丸見屋(現・ミツワ石鹸)

1952年度 選外二 松下電器(現・パナソニック

選外二
松下電器(現・パナソニック)

広告デザインが一気に花開いた60年代

 60年代に入ると、池田勇人内閣が所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長が進展します。それに伴い広告界も活発化しました。デザイン界では、粟津潔さんが新聞の横組みの提案をするなど、若手が活躍し始めます。また、60年には、亀倉さん、原さんをはじめ、山城隆一さん、宇野亜喜良さん、横尾忠則さん、そして田中さんや私など、グラフィックデザイナーが結集し、「日本デザインセンター」が設立されました。

 亀倉さんも原さんも独立して事務所を持っていましたが、朝日新聞社の経団連担当の鈴木松夫記者が、「これからの企業は広告の力が非常に大きい。広告の力がないとこれから伸びていかない。大企業の広告、さらに日本の広告、あるいはデザイン文化を良くするためには、大企業は出稿量も多いわけだし動かないとだめだ」と主張され、記者のパイプを生かしてトヨタ自動車販売の神谷正太郎社長や、富士製鉄の永野重雄社長など財界の歴々の支持を集め、さらに美術担当記者だった小川正隆さん……のちに美術評論家として活躍し、富山県立近代美術館初代館長を務められた方ですが、小川さんと連携してデザイナーたちに声をかけ、創設に至ったのが日本デザインセンターでした。

 参画したデザイナーの一人である山城隆一さんは、髙島屋の広告で53年度、54年度と続けて朝日広告賞を受賞しています。活字や書き文字が主流だった時代に写植を用い、広告に新風を吹き込んだ方です。髙島屋や伊勢丹(現・三越伊勢丹ホールディングス)などデパートの広告は、暮らしが充実してきた日本人のあこがれであり、朝日広告賞の常連となっていきます。飲料の分野では、坂根進さんのアートディレクション、開高健さんのコピー、柳原良平さんのイラストレーションによるサントリーの「トリスウヰスキー」の広告が受賞を重ねます。

 高度成長とともに流通関係の広告がぐっと増え、商品や企業の個性化も始まります。電化製品の多様化、マイカーブームなども新聞広告に反映されていきます。また、50年代後半から単色の色刷りがちらほら出てきて、60年代からは多色刷りが格段に増えました。写真原稿も珍しくなくなっていきます。開高さんをはじめ、梶祐輔さん、土屋耕一さんといったコピーライターも才能を開花させ、一時代を築きました。

 回を重ねるにつれ、朝日広告賞、ADC賞、毎日広告デザイン賞、広告電通賞など、各広告賞の個性もはっきりしてきます。朝日広告賞に対する私の印象は、メッセージやブランドの個性を重視した広告。先導役を果たしてきた広告主としては、松下電器、髙島屋、サントリーなどが挙げられると思います。松下電器は、竹岡リョウ一さんという優れたアートディレクターがいて、60年度朝日広告賞を受賞した広告をはじめ、何度も入賞されています。

1953年度グランプリ 高島屋

1953年度グランプリ
高島屋

1954年度グランプリ 高島屋

1954年度グランプリ
高島屋

1960年度グランプリ 松下電器(現・パナソニック)

1960年度グランプリ
松下電器(現・パナソニック)

デザイナーや芸術家が一堂に会した東京オリンピック

永井一正氏

 60年代の日本のデザイン界における最大のエポックは、64年に開催された東京オリンピックです。まず、オリンピックのシンボルマークを決めるにあたって、河野さん、亀倉さんなどベテランデザイナーから、杉浦康平さん、田中さんや私など若手デザイナーまで、コンペに参加しました。採用されたのは、亀倉さんのデザインでした。亀倉さんは提出期限を直前まで忘れていて、慌てて1日作業で制作したという裏話があります。それがかえって亀倉さんの思想を研ぎすまし、日の丸、五輪のマーク、「TOKYO」と「1964」のタイポグラフィーという必要最低限の要素で構成されたデザインにつながったのだと思います。あのマークを見た時、「これ以上に日本を象徴するマークはない」と、目を洗われる思いでした。自分が落選した悔しさ以上に、すばらしいマークができた喜びに包まれた記憶があります。

 東海道新幹線や高速道路の開通などインフラの整備も急ピッチに進み、丹下健三さんの設計による東京オリンピック国立屋内総合競技場(現・代々木体育館)も建てられました。柳宗理さんや岡本太郎さんなどもオリンピック関連のデザインに携わり、グラフィックデザイナー、建築家、プロダクトデザイナー、芸術家が一堂に会して取り組んだ一大プロジェクトでした。

 東京オリンピックによってますます日本経済は伸長し、その勢いのまま70年の大阪万博が開幕します。公害が社会問題になる中で、「人類の進歩と調和」というテーマが打ち出され、岡本太郎さんが「太陽の塔」を制作しましたが、科学技術の進歩が人間を幸せにするということがまだ信じられていて、「進め、進め」という時代でした。

 国家的事業は続き、72年に札幌冬季オリンピック、同年に沖縄県の本土復帰記念事業の沖縄国際海洋博覧会も開催され、この二つの大会のシンボルマークは私が担当しました。

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