近年、「脳の可視化」を実現する各種計測機器の発達により、人の「心の働き」を解明する脳科学研究が加速している。この成果を産業に活用しようとする動きが世界的に見られる中、日本でも2010年10 月、企業や研究者が参加し、最新の知見をもとに脳科学の産業活用の可能性を探る応用脳科学コンソーシアムが設立された。事務局長で、NTTデータ経営研究所 エグゼクティブコンサルタント マネジメントイノベーションセンター長の萩原一平氏に聞いた。
諸外国で進む脳科学の産業応用 客観的データベースがカギ
──NTTデータ経営研究所が脳科学の産業活用に注目した経緯について聞かせてください。
当社のコンサルティングビジネスは、医療関連の分野も有します。この活動を通じ、アルツハイマー病など脳疾患の計測技術が大きく進化し、初期診断に貢献しだしている現状を知りました。脳計測技術の中で注目したのは、意識下の「心の働き」に関係する脳反応の可視化です。脳のどの部位にどんな働きがあり、どんな時に反応するのかを探り、人の行動や意思決定の仕組みを解明できれば、企業経営、マーケティング、商品開発などさまざまなビジネスに生かせると考えました。
──日本と海外で、取り組みにどのような違いがありますか。
日本の脳科学は、基礎研究は進んでいますが、産業応用は後れを取っています。アメリカでは、1990年から国策として脳科学研究を支援し、研究者の数は日本の約8倍、投入予算は20〜30倍。研究成果は確実に産業界に普及しています。欧州連合(EU)では、90年代後半からライフサイエンスと情報工学を組み合わせて脳科学を推進、「脳科学はITのために何ができるか」を基本課題とし、企業と研究者間のネットワークづくりを行っています。最近は韓国や中国でも研究が加速しています。グローバル時代を日本企業が生き抜くうえで、こうした動きを見逃すことはできません。
──そうした中、応用脳科学コンソーシアムが設立されました。
活動の主な目的は、組織間や組織内の縦割り構造を脱し、産・学が連携して知識や技術の結集をはかるオープンイノベーションです。電気・電子メーカー、輸送機器メーカー、食品メーカー、化粧品メーカー、小売・サービス業、情報通信関連企業など異業種の民間企業、脳神経科学、人間科学、認知心理学、情報学、社会科学など異分野の研究者、大学、研究機関が連携しながら事業活用への可能性を探っています。
──脳の可視化技術の種類や特徴は。
基幹技術として、fMRI、EEG、NIRSの大きく三つがあります。fMRIは、脳の深層部の反応の変化を時系列でとらえることができる技術で、精緻(せいち)なデータが検出できます。ただ、計測器の導入には億単位、維持にも年間数千万円の費用を要します。EEGは、てんかん治療などに使われる脳の電気信号をとらえる技術で、デジタル技術やコンピューターグラフィックス等の進歩により、複雑な波形の読み取りやイメージングが容易になりました。リアルタイムの脳反応の計測はfMRIよりも得意です。導入費用は数百万円で事業活用のハードルは低く、普及が早い技術でもあります。ただし、脳の深層部の反応まではわからないので、最近はfMRIと併用するケースも見られます。NIRSは、頭部に近赤外線をあてて脳血流をとらえる技術で、導入費用は数千万円です。
──海外で脳科学を産業に応用した事例は。
脳科学を積極導入している一例が香料業界で、世界最大の香料メーカーのジボダンは、脳活動を測定して「落ち着く香り」「集中力が高まる香り」などをデータベース化し、製品開発に生かしています。業界第2位のフィルメニッヒも同様の研究を行っています。第3位のIFFは、脳損傷の患者にかがせるとリハビリ効果のある香料を開発、第4位のシムライズは、痛みが緩和される香料を開発しました。
化学素材メーカーのスリーエムは、脳科学者と視覚研究者が共同で、街頭サインなどのデザインを見る人の脳活動や視線の動きをシミュレーションで推定し、注視率などを検証。結果を得意先に提供するビジネスにつなげています。映像産業も採用に積極的で、ウォルトディズニーは自前の脳科学・生理計測の研究所を持ち、その知見を映像編集等の制作に反映しています。
香り、デザイン、映画などから受ける印象は、主観的な部分がとても大きいものです。これを脳科学や生理学的見地から定量化、客観化できれば、ビジネス的な説得力は増します。また、客観的データベースは、開発者の未熟を補います。ベテランの調香師であれば、テーマにそった香りを長年の勘で作ることができるかもしれませんが、経験の浅い調香師には簡単なことではありません。しかし、データベースがあれば実現可能です。金融業界では「ニューロファイナンス」といって、スキルの高いディーラーが株の変動グラフを見ている時の脳活動を測り、どういうグラフが示された時に反応しているかというデータを集めてビジネスに生かす研究などもされています。
「ニューロリーダーシップ」「ニューロマネジメント」「ニューロポリティクス」といった分野もあります。多くの社員を抱える企業ほど社員の能力を高い次元で均一に保つことが重要で、名だたるグローバル企業が脳科学の事業活用を進める一つの理由です。海外企業は、広く一般の人を対象にして知見を集めることにも積極的です。一方の日本は、研究室の中での実験にとどまっていて、市場で試すことに慎重な傾向があります。
商品開発やマーケティングに反映している国内の事例
──国内の応用事例は。
レンズの専業メーカーである東海光学は、遠近両用メガネを使用した時の脳波データから読み取れる調査結果とモニター主観評価を合わせてレンズ設計にフィードバックし、商品化しました。そのメガネは、通常の遠近両用メガネの4倍の売れ行きを記録。従来は「ちょっと見えにくい」「わりと見やすい」という装用感アンケートが開発の手がかりとなっていたわけですが、「ちょっと」や「わりと」の領域を脳波によって可視化、客観化しようという試みです。
資生堂は、かなり以前から脳科学に取り組んでいる企業で、化粧品の塗り心地などの感覚を数値化して商品開発に応用した例から、販売員の接客態度などのマーケティング、化粧療法など化粧のメンタル的な効用に至るまで、さまざまな知見を蓄積し、事業活用しています。
竹中工務店は、脳波計測と心拍数などの生理計測をかけ合わせ、空間、照明、温度などが人に与える影響を調査し、空間設計に応用しています。ちなみに、アメリカの建築業界では「ニューロアーキテクチャー」に関する学会もあります。また、「天井が低いと緻密(ちみつ)な作業に集中できる」「天井が高いと創造的な仕事ができる」といった研究結果が発表されています。これに通じる話で、「あたたかい飲み物を飲みながら開いた会議と、冷たい飲み物を飲みながら開いた会議では、前者の方が協調性が出やすい」「まだ無名の曲を何曲も被験者に聞かせ、のちにヒットしたのは脳に特別な反応が多く出た曲だった」など、人間が無意識のうちに行っている意思決定や判断などに関してさまざまな研究成果が発表されています。
博報堂は、認知心理学や脳科学を活用して、生活者の潜在意識や深層心理にアプローチする専門チームを持ち、欧米の脳計測技術を使い、CMの評価やデザイン、ブランド戦略の立案等への活用も行っています。
応用脳科学コンソーシアムでも、日本の神経科学者等とともに、新しいメディアやデジタルツールの効用に関する研究を行っています。
──今後の課題は。
一つ目は、応用脳科学の事業活用に必要な専門知識を有する人材の不足です。アメリカの大学には、神経科学部という脳科学の専門学部があり、ニューロベンチャー企業の数も多く、神経学部の卒業生は引く手あまたといわれています。一方、日本は、文学部心理学科、医学部脳学科など、学びの場がバラバラで、就職先もかなり限られています。二つ目の課題は、脳科学とマーケティング、脳科学とIT、脳科学と経営など、異分野との融合をはかれる人材の不足。三つ目は、日進月歩で研究が進んでいるため、情報のキャッチアップが難しいこと。四つ目は、脳科学に関する適切な倫理基準を有さないため、企業が導入に慎重なこと。そして、いちばん大きな問題は、脳科学をどう活用すればいいかわからない経営者が多いことです。
──導入の判断が課題のようです。
日本の研究者の中には、脳科学の産業応用に否定的な人もいます。しかし、そうしている間にも海外企業が新しいビジネスタイルを日本に持ち込み、それを採用する日本企業もどんどん増えてくるでしょう。この流れが止められないのは明らかで、日本の学界や企業がタッグを組んで自発的に研究・活用を進め、人や社会に貢献できるビジネスを模索していくべきではないかと思います。応用脳科学コンソーシアムの活動が、企業と研究者のコラボレーション、そして日本企業の競争力強化の役に立てれば嬉しいですね。
◎応用脳科学コンソーシアムのホームページはこちら。
応用脳科学コンソーシアム 事務局長
早稲田大学卒業、プリンストン大学大学院修了。電機メーカー、シンクタンクを経て、現在は株式会社NTTデータ経営研究所 マネジメントイノベーションセンター長兼応用脳科学コンソーシアム事務局長。専門分野にニューロコンサルティング、環境分野全般、地域情報化など。講演「応用脳科学コンソーシアムが拓く脳科学の産業応用とオープンイノベーション」、共訳「ITアウトソーシング戦略」(NTT出版)ほか論文・講演多数。