器が育つ、経年変化も美のひとつ。器を通じて日本文化を世界で発信

 二階堂明弘氏は、伊豆・修善寺を拠点に国内外で活動している陶芸家だ。ニューヨークやパリ、上海など海外のギャラリーなどでも個展を開催している。使うたびに食器が育つ――経年変化も美しさの一つという考えは、料理人をはじめ、感度の高いユーザーに支持されている。2010年から若手陶芸家の交流イベント「陶ISM」も主宰。若手陶芸家の活躍領域を拡張する活動にも尽力している。

「器」(『広告朝日』27号表紙)

陶芸におけるアートの定義とは

──陶芸の道に進んだきっかけは。

 陶芸家になろうと思ったのは、高校3年の春頃。高校卒業後の進路を考えたとき、大学を卒業して普通に就職してサラリーマンとして働くことには、どうしても興味がもてなかったんです。バブル崩壊後だったことも、影響しているかもしれません。どうせ働くなら、何か形に残るものが作りたいと考え、そのとき思いついたのが陶芸の道でした。陶芸との接点が、小学生の頃に少しだけあったんです。父親はサラリーマンでしたが、陶芸家の知り合いがいて、ときどきその方から器を買っていました。小学生の頃、父親と一緒にその方の工房に行ったことがあります。子供だったので器の良さや魅力については、よく分かりませんでしたが、陶芸という仕事があることは記憶に残っていたんです。それで、陶芸の道を志すことにしました。

 特に美術が得意でもなく、これまで陶芸家になりたいと言ったこともなく、器などを作ったこともなかったので、親は相当驚いていました。高3になって急に言い出したので、美大受験の準備も間に合わず。最終的には、陶芸が学べる専門学校に入学しました。

 土の練り方から形にする方法、窯で焼き上げて完成させるところまで、陶芸の全工程を学校で学びました。卒業後は伊豆にある観光客向けの陶芸教室で働きながら、夜は作品づくりをする日々を送っていました。その2年後に初個展をして、23歳で陶芸家として独立しました。

──現在のようなアーティスティックな作風はいつ頃、確立されたのでしょうか。

二階堂明弘氏

 伊豆から益子に移り、数年経ってからなので、20代後半です。ただ、納得がいく作品をつくれるようになるまで、いろいろ思い悩んだ時期もありました。専門学校で陶芸を学び始めた頃、絵画や彫刻がアートで、用途のある器はアートではないと教えられていたからです。アートとして陶芸をやりたい人は、器ではなくオブジェをつくる。その考え方に、とても違和感があったのですが、自分なりの答えも見いだせずにいました。独立してからは、お土産屋さんで「作家モノ」というカテゴリーで販売する器をつくりながら、なんとか生活していました。ただ、オブジェをつくってもアートだとは納得できず、器も自分の作品とは言えないようなものだった。どっちつかずの日々が続き、悩んで作品がつくれない時期もありました。

 しかし、そもそも器はアートではなく、オブジェがアートという考え方自体、誰かが後付けで考えたものですよね。オブジェも器も突き詰めていけば、作家の思考から生まれたもの。器がアートではないとは言い切れず、それは作家自身が決めればいいことだと吹っ切れました。それから、自分がいいと思う器をつくろうと、自分の足元にある土を使い、自分がつくりたいものをつくろうと、当時暮らしていた益子の土で器づくりを始めました。

──メタリックな印象もある黒い器は、二階堂さんを代表する作品です。

 物流が発達した今は、世界中の素材や材料がどこにいても手に入ります。けれども、かつては、その土地でとれる材料でつくっていました。そのため産地ごとに、特色があるという歴史があります。たとえば益子焼の特徴は、分厚くて丈夫なこと。それは、益子の土は、薄く仕上げるのが難しいからです。ただ、僕はどうしても自分が暮らしていた益子の土を使いつつも、益子焼らしさにはとらわれず、自分がつくりたい表現を突き詰めたかった。益子の土の良さをできるだけシンプルに引き出すためには、どうしたらいいか。温度設定など試行錯誤しながら完成させたのが、黒い器でした。しかし、なかなか売れず、かなり酷評もされたんですよ。

──国内外で黒い器の評価は高いです。

 当時は白い器が一般的だったので、白じゃないものにしようと考えていました。さらに料理が映えるデザインを目指しました。その結果、黒い器に行き着いたのですが、小売店に営業しても反応は鈍かった。単純に黒い器は珍しかったというのもあります。それと、黒い器は使うと染みができやすいんです。洗っても汚れのように見えるから、汚いと言われることもありました。だけど、僕自身は、使ってできる染みや色の変化は経年変化であり、美しさの一つだと確信していたんです。酷評されて悔しい思いはしましたが、心が折れることはなかったのは、自分が本当にいいと思うものをつくっていたからです。作家性を曲げてしまうと、心が死んでしまう。だから、なんとか食いつなぎながら、黒い器をつくり続けていました。

海外での個展につながった日本文化への思いと行動力

──評価されるようになったきっかけは。

 小さなきっかけの連続でした。その一つが、感度の高いシェフや料理家の方々が使ってくれるようになったことです。あるとき、黒い器を使ってくれている益子の飲食店のシェフが、器を探していたフードディレクターの野村友里さんを紹介してくれました。それで直接つながり、僕の器を使ってもらえるようになったんです。そこから少しずつ広がっていきました。同世代の料理家の方々は、経年変化による染みは「器が育っていく」と捉えてくれて、僕が思っていたことをそのまま受け取ってくれていた。信念を貫いて本当によかったと思っています。


──2010年から若手陶芸家の活動領域を広げる交流の場「陶ISM」も主宰しています。

 当時、僕は作品が売れるようになり、各地のギャラリーやショップ、メディアの方々などと知り合う機会も増えていました。産地の外の人と交流を持つことは、陶芸家として飛躍する上でとても重要です。しかし、若手陶芸家の多くは産地にこもってお土産ものをつくって食いつないでいる。僕自身も若手の頃はそうだったので、現状を変えたいと思っていました。

 今ほどSNSも普及しておらず、情報を得ることも難しかった。そこで、若手作家が一堂に集まって作品を販売し、そこにギャラリーやショップで働く人たちも見に来てくれたら、情報共有ができるし、いろんな人とつながることもできる。そんな場をつくろうと考えました。そんな思いに共感してくれる陶芸家の仲間を募って、始めたのが「陶ISM」です。

 いまは3年に1回くらいのペースで開催しています。昨年11月、横浜で開催したときは、国内だけでなく、海外のギャラリストも来日してくれて、やっと本来やりたかったことが実現できました。来場者も多く、理想どおりの内容で、大成功だったと思っています。

──海外で個展を開催するようになったきっかけは。

 若手の頃から、いつか海外で個展ができたらいいなと思っていました。最初のきっかけは、知り合いの茶人がニューヨークでグループ展を開催することになり、茶碗を出してほしいと頼まれたことでした。その個展に自腹で同行させてもらったんです。そのとき、ニューヨーク在住の茶人の方と知り合い、意気投合し、ニューヨークでの個展の開催につながりました。

 実はそのとき僕は、どうしても海外で個展を開催したい理由があったんです。東日本大震災によって原発の事故で、陶芸の文化があっけなく消えていくのを目の当たりにしたからです。福島で何百年も続いた相馬焼は、一瞬でなくなってしまいました。復活させることも難しく、あまりにも悔しい。しかし、土は放射能で汚染されてしまったかもしれないけど、精神性とか文化自体は残せると思ったんです。日本には素晴らしい文化があることを、あらためて海外の人たちに伝えたい。そんな僕の思いを現地の方に伝えたくて、自腹でニューヨークに行くことに決めました。採算のことも、うまくいくかどうかも、一切考えていなかった。直感で行動して、本当に良かったと思っています。

 第1回目の個展は、日本の文化を伝えることが一番の目的だったので、自分の作品だけを展示するのではなく、茶人をはじめ、書家や和菓子職人などとチームをつくり、茶の湯の世界を表現しました。その後、他のギャラリーからも声がかかるようになり、今年を含めて5年連続、ニューヨークで個展を開催しました。


──今後について、展望などお聞かせください。

 薪窯を譲り受けたことがきっかけで、今年の8月、伊豆の修善寺に移りました。伊豆はかつて火山活動が活発だったため、陶芸に使用できる土がたくさんあります。薪窯と伊豆の土をつかって、新しい作品をつくっていきたいと思っています。あと、海外での個展も継続して開催したいです。同じ器でも、文化の違いによって求められるサイズや形などデザインが異なります。各国の文化について器を通じて学び、それを僕が作品に反映させることで、自ずと日本の文化と混ざり合い、今までにはない新しい表現を生み出せる可能性があるはずです。それは僕だけじゃなく、ほかの陶芸家の方々でも同様です。海外に出ていくことで、陶芸の表現はもっと広がると思っています。

二階堂 明弘(にかいどう・あきひろ)

陶芸作家

1977年札幌に生まれる。1999年文化学院芸術専門学校陶磁科卒。2010年 「陶ISM 2010」を企画し開催。11年東日本大震災により開催直前だった「陶ISM2011」が中止に。これを期に仮設住宅に直接、陶芸家のうつわを届ける「陶ISMウツワノチカラ Project」を開始。14年現代陶芸展「現象」を茨城県立陶芸美術館で、15年個展「侘びと今」をニューヨークで開催。16年「侘びと今 -輪-」、19年「侘びと今 -散-」をそれぞれニューヨーク各所にて開催。同年、伊豆 修善寺の山中に工房を移す。1年に10回を超える個展を中心に活動しニューヨーク、パリ、台北、上海、北京で個展や作品展にも出品。中国茶葉博物館に作品が収蔵。