クリエーターが語る、「梶祐輔」「眞木準」

 今年、広告界を代表する二人のクリエーターが亡くなった。1960年、日本デザインセンターの設立に参加、戦後広告の新しい領域を切り開き、昭和・平成を象徴する広告を生み出した、梶祐輔氏。1970年代からキャリアをスタートし、1980年代の「コピーブーム」を経て今に至るまで活躍し続けた、眞木準氏である。
 両氏についての思い出を、クリエーター各氏に語ってもらった。

梶祐輔氏について

●アートディレクター 浅葉克己氏

 審査会での梶さんの意見は、広告の歴史を深く知っていらっしゃるだけに重みがありました。また、ご自身の活動として多くの若手クリエーターにインタビューをされていて、それを本にしたらどうかと提案したこともありましたが、見ることができなくて残念です。

●コピーライター/クリエーティブ・ディレクター 前田知巳氏

 お話をさせていただくだけで、たくさんの刺激をもらえる人でした。特に新聞広告に対する思いは深く、「新聞広告は、値段の安さだけで売る広告とは決別したほうがいい」「今こそ逆に、『訳あって、高い。』というような、自信や誇りを込めた商品メッセージを企業は発信すべきだ」といった梶さんの提言は、ある意味過激で、僕よりずっと若々しい感覚だなあ、とちょっとしたショックを受けたのが印象深いです。「暗いニュースが増えるときほど、広告は世の中にとって明るいニュースであること、という自覚が、送り手になければならない」。梶さんからの言葉は、今後ますます重みを増していく気がします。

■「梶祐輔氏 追悼広告特集」を掲載■
 梶祐輔氏の仕事の足跡をたどる広告特集を、10月20日の「新聞広告の日」に掲載しました。
 現日本デザインセンター最高顧問の永井一正氏と、広告ジャーナリスト(元電通総研顧問)の岡田芳郎氏が、梶氏の代表作であるアサヒビールの企業広告「ビールつくり三代」(1960年)、トヨタ自動車の広告「白いクラウン」(1968年)、国鉄民営化に伴う「JR」のCI(1987年)などとともに、氏の仕事を振り返るという内容です。
 また特集では、梶氏が40年以上にわたって朝日広告賞審査委員をつとめ、若手広告制作者の育成に尽力したことについても触れました。


※右の画像をクリックすると拡大して表示されます。

<お知らせ> 梶祐輔氏「お別れの会」が、12月11日(金)、午後3時より午後4時半まで、ホテルニューオータニ(東京都千代田区)の「芙蓉の間」で行われます。お問い合わせは、電話03-3567-3230 日本デザインセンター総務室までお願いいたします。

眞木準氏について

2008年度朝日広告賞贈呈式で講評する眞木準氏(2009年4月) 2008年度朝日広告賞贈呈式で講評する眞木準氏(2009年4月)

●コピーライター 仲畑貴志氏

仲畑氏の眞木氏についてのコメントは、こちらからご覧下さい。
https://adv.asahi.com/special/contents160035/11052474.html

 

●アートディレクター 浅葉克己氏

 眞木さんは、「ちょっと先の未来」が読める人でした。審査会では、言葉の重要性を常に意識され、おしゃれで半歩先を行くような作品を選んでおられました。面白い視点でいろいろと発言してくださり、そんな考え方もあるのかと気づかされたことは多かったです。
 昨年、眞木さんとトークショーをやるにあたって2人で一緒にやった仕事を調べたところ、実に150点あったんです。眞木さんはいつも10本くらいのコピーを作ってきて、好きなものを選んでくれ、という感じでした。こちらのイメージを伝えてコピーにしてもらうこともありましたが、見事に意図をくんで一行のコピーにして返してくる。そういうコピーライターはなかなかいません。眞木さんの書いたコピーで好きなのは、一緒に手がけたサントリーの「あんたも発展途上人。」「飲む時は、ただの人。」、ミサワホームの「家ではスローにん。」。また、日本の文化を広く考えるボランティア活動「エンジン01文化戦略会議」、エイズ・チャリティーコンサートから発展した「六本木男性合唱団倶楽部」など社会活動を熱心にされ、それらで発表された「税ゼイあえぐ文化を救え。」「錆びたナイーブ」といったコピーも印象深いです。

●コピーライター/クリエーティブ・ディレクター 前田知巳氏

 眞木さんのコピーの中から1本を選ぶのは簡単なように思います。でもいざ選ぼうとするとなかなか選べません。そのくらい、一見軽やかだけど、こちらに迫ってくる気合いのこもった言葉ばかりがズラリと並んでいます。
 なにがすごいって、広告表現そっちのけで言葉だけが人々の記憶に残っていたりするからすごい。でもその言葉はその時代時代で確実に人の気持ちを動かしてきた、広告として実際に「効く」言葉でした。まさにコピーとしての理想ではないかと思います。
 真木さんはよく、広告の言葉にこそ「私点」が大事なんだよ、と言っていました。その商品を前にして自分は何を感じるか、自分は何を考えるか。でもそれは「書き手のエゴ」とは全然違う、眞木さんはこのことがなかなか伝わりきらなかったことが歯がゆかったんじゃないでしょうか。
 ギミックだけではダメ、合理的なだけではダメ。そこに商品をとことん見つめる書き手の「私点」があって、はじめて商品の本質を広く伝えられる言葉になるんだけどなあ。真木さんはそう言いたかったんだと思います。
 「でっかいどお。北海道。」を超える北海道のコピーはまだないし、おそらくこれからも出てこないでしょう。

●コピーライター/クリエーティブ・ディレクター 岡田直也氏

 僕の師匠は誰かと聞かれれば、それは間違いなく眞木さんです。眞木さんは、僕が1980年に博報堂に入社したときはすでにスターで、あこがれの対象でした。とにかく眞木さんの書くコピーが好きで、そのスタイルを真似した時期もありました。としまえんのコピーも、少なからず眞木さんの影響があります。あるとき、眞木さんの「駄洒落(だじゃれ)じゃないお洒落」な作風と自分の作風は違うと感じて追いかけるのをやめましたが、思えばそれが自分の作風が確立したときだったのかなと思います。
 博報堂にいたときは一緒に仕事をしたことはありませんでしたが、眞木さんが独立されてからいろいろと声をかけてくれて、「宣伝会議」の大阪校長に僕を推薦してくれたのも眞木さんでした。僕が書いたコピーに対する批評を見てドキッとさせられたこともありました。言葉というものに対する思い入れが人一倍あった方です。
 眞木さんの仕事で強く印象に残っているのは、まず、ライオン事務器の「ライオンファイル」の広告。「10歳にして愛を知った。」「記録は残る。記憶は消える。」というコピーです。小学4年生で「愛」という漢字を習うことから生まれたアイデアに舌を巻きました。もう一つは、男性誌に掲載された伊勢丹の広告で、「着やすい。つまり脱がせやすい。」というコピーで、これもすごいなと思いました。どちらも70年代の広告ですが、眞木さんの原点という気もして特に好きです。

●チーフ・クリエイティブディレクター 高松 聡氏

 最近、コピーに力がないと感じることが多いのですが、眞木さんは「コピーには力がある」と証明し、それを誰しもが認めた数少ないコピーライターでした。ANA沖縄キャペーンの「高気圧ガール、はりきる。」、伊勢丹の「恋が着せ、愛が脱がせる。」「恋を何年、休んでますか。」などは、僕の中にも相当焼きついています。新聞に1回出ただけで、10年、20年たっても「あれはよかった」というコピーがいくつもあった。1行のコピーが1回掲載されただけで人々の中に残るのはすごいことで、その仕事ぶりは際立っていました。